第10話 三番目のリオ(scene2)

 鬼炎家の名がでてこないぞ……?

 それはどうしたことだろうか。


 俺は自然と周りに視線をめぐらせてから――なにかを警戒する必要などないはずなのに、少し緊張しながら言葉をつむいだ。


「嘉手納(かでな)さん……お嬢って誰のことですか? まさかリオですか?」

「ん? ええ、もちろんそうですよ。お嬢はお嬢です。リオお嬢さま。古くから水無家に仕えているもんは、お嬢って呼んでますね。なにせ、オネショしてるころから知ってるからなあ。その話すると、鬼のように怒りますから内緒ですけどね」

「ちょ、ちょっと待ってください、そもそも嘉手納さんって、鬼炎家の人じゃないんですか」


 焦る必要はないのかもしれないが、俺はなんだか焦っていた。

 クールでも、うざがらみでもない、さらに別のリオの一面を見つけてしまった気分だ。


「いやいやいや! 私みたいなおっちょこちょい、鬼炎家に直接仕えてたもんなら、すぐにこれですよ、これ」


 嘉手納さんは、おどけた風に首のあたりで、手を水平に動かした。


「じゃあ、まさか水無家に仕えているということですか……?」

「まさかって……もちろんそうですけど――あれ……? ぼっちゃんって、『鬼炎の火消し屋(きえんのひけしや』)って言葉知りません?」


 ひけしや?

 なんだろうか。

 思い浮かぶのは、江戸時代を舞台にした時代劇なんかで見る人たちだ。

 火事が起きた際、その火が隣家にうつらないように、周囲の家を叩き壊すらしいとか、テレビで見た気もする。


 その『火消』だろうか。


「すみません、教えてもらってもいいですか」

「ああ、まあなあ。バブル時代なんか知らない世代じゃあ、しょうがないか。今の世の中、クリーンな印象が重要だからね。昔みたいに、暴れた話がなんでもかんでも綺麗事のようには語り継がれないよね」


 嘉手納さんは再び、遠い目をした。

 やはりそれは大人が過ぎ去った過去を思い返している目だった。


「鬼の一族なんて言われてる鬼炎(きえん)家を含めた六名家はさ、ようするに今は無き財閥の別の顔だよね。で、力あるものは何かを支配するから。色々争いも生まれるし、裏の世界ってのには、法律なんてないからね。どうしたって色々起こるわけだよ」


「は、はい」


 なんだか別の世界の話が始まってしまったようで、現実味がない。

 新聞配達やコンビニの社会しか知らない俺には、リアルにイメージするには難しいようだ。


「鬼炎家だって、例外じゃないからね。色々巻き起こる――どころか、鬼炎家はそういうところにわざと首つっこんで、まるで鬼みたい相手の首をかっきってさ、恐怖されてたよ。で、その後始末をするのが、その鬼炎の火消し屋ってやつだね。鬼炎家が通ると、火事が起こるから。誰かが消さないとでしょ? そういう、存在。今風にいうと、炎上したネタを鎮静化させる裏方みたいな」


「それが、水無家?」


「ああ、いや、そうだけど、そうじゃないですよ――八衆いました。ああ、いまは八家か。名前もちょっと変わっちゃったんだよな」


 嘉手納さんは、指折り数え始めた。


「今はえっと……水無(みずなし)、池鳥(いけどり)、雨宮(あまみや)、白鳥(しらとり)、川神(かわかみ)、海原(かいばら)、魚住(うおずみ)、亀梨(かめなし)かな。全部、水に関係するような家名だから、そんな感じの家のものがぼっちゃんに近づいてきたら、ちょっと何かあるかもしれませんね。それぞれの家が仕えている相手が、鬼炎の中でも違うもんだから。ぼっちゃんはつまり、水無家がつかえる鬼炎家のぼっちゃんってことです」


「な、なるほど」


 よく分からないけど、よく分からないなりに、何か強大な存在を感じた。背筋が少し寒くなる。

 だが、嘉手納さんのニコニコ顔を見ていたら、それもすぐに消えてしまった。

 やっぱり笑顔ってのは良い。ここにきてから、あまり見ないからな。

 リオのあの、ニヤリって感じの表情も、一応、笑顔なのだろうけど。


 嘉手納さんは、もう一度頭をぴしゃりと叩くと言った。


「ま、ろくでもない話ですわ。忘れたって、なんも困りません……いや、ぼっちゃんは立場が違うか」

「いや、同じですよ。普通の人間です」

「あはは、まあ、ぼっちゃんの良いところはそこだ。私も、ぼっちゃんで良かったって思いますよ。ほんと」

「俺で良かった……?」


 なにが、俺で良かったのだろうか。

 だが、嘉手納さんは、俺の疑問には付き合ってくれなかった。


「いやあ、結局さ、昔から世の中変わらないよね、人間の行動パターンての。入鉄砲出女ってやつ、結構思い出しますよ」

「いりでっぽう、でおんな……」


 先ほどまで勉強していた歴史……そのはるか前の知識が刺激された。

 たしかそれは、火消の記憶と同じく、江戸時代の事だったか。

 意味は――。


「――リイチ様」

「ん」


 いつの間にか、重厚な玄関扉が開かれていた。

 そこに立っていたのは――リオだった。

 いつもの無表情だが、俺と嘉手納さんを交互に見たあと、わずかにだが眉をしかめた……気がする。


 あと、なんか息があがっているような気がする。

 胸あたりの上下がはげしい。……そんなこといったら、また変なこと言われるから黙っているけど。


 それにしても、そんなに急ぐようなことがあったのだろうか。


 リオは呼吸を抑えるように、静かに口を開いた。


「嘉手納さん。何をお話ですか?」


 なぜだろうか。

 リオの言葉は、とても重く感じられた。

 それは俺の知らない、別のリオのようだ。

 まるで三番目の人格を見つけたような感覚。

 

 三番目のリオ――俺はなにを言っているのだろうか。


 でも、なぜかその表現がしっくりときた。


「あはは、ぼっちゃん、わたし怒られちゃうから、これまでです。退散しますわ」

「あ、はい、ほんとありがとうございました」


 頭を下げる俺に、嘉手納さんはそっと囁いた。


「お嬢の事、くれぐれもよろしく頼みます」


 面倒を見られているのは俺のほうなのだが――そんなことを返す間もなく、嘉手納さんはまるで前を走る車を追いかけてくれと言われた運転手のような機敏さで、車を走らせ去っていった。


 リオが近づいてくる。

 なぜだろう。

 やはりそれは、俺の知っているリオではない気がした。


 所作、だろうか。

 いやいつもと同じだ。

 

 なら、表情?

 いや、それだって変わらない。


 なら――なんだろうか。

 それは目に見えない、なにかなのだろうか。


 リオは俺の目の前までくると、俺の目を真正面から見つめた。


「リイチ様」

「う、うん?」


 思わずどもってしまう。

 圧力? わからないが、それだけの何かがリオから発されていた。


「リイチ様」


 リオはもう一度だけ呟くと、言った。


「あたらしい下着を買ってきたので、いまから試着しますが……見たいですか?」


「……は?」


「なんと、おっぱいがデカく見えるやつです。まあ、見えなくてもわたしの胸はそこまで小さくはないのですが。しかしリイチ様の求める母性という点においては、まだまだ未熟ですからね。ご主人様の巨乳好きにも参ったものです」


「……おい?」


 こ、こいつ、クール系とうざがらみ系を見事にまぜてきやがった。


 今までの圧力はなんだったんだってぐらい、いつも通りのリオだった。

 クールにこんなこと言われたら、ただのマジもんに聞こえるじゃないか。

 見ないからな。絶対に。


 リオは、しかし普段よりも饒舌に、ぺらぺらと言葉を並べ立てた。


「リイチ様のお母さまは、超がつくほどの巨乳ですからね。さすがにあれと比べられては、わたしも努力しないわけにはいきません。しかし喧嘩が強く一度も負けたことがないのに、巨乳とは……運動のときに重くないのでしょうか。物理法則を無視しているような気もします。やっぱり牛乳がお好きなかたは、そんな感じなのでしょうか」


「……ん?」


 俺の思考が止まる。

 だがリオは……珍しく何も気が付かないようだ。


「――さ、リイチ様。そんなところでぼうっと立ってないで、中に入りましょう。お外でわたしのお着替えをみたいというなら話は別ですが、わたしにはそのような趣味はありませんので。ちなみに下着は黒と赤と白と水色、どれだと思いますか」


 答えは、ない。

 向こうも期待していないようだ。


 リオは踵を返すと、洋館に入っていった。

 まるで俺をいざなうように、俺をこの場所から引きはがすように、俺の意識を先ほどの話から遠ざけるように――だが俺の足は動かなかった。


「なんであいつ――」


 俺はリオの背中を見ながらつぶやいた。


「――母さんが、喧嘩に負けたことがないって話、知ってるんだ?」


 そんなこと俺は言った記憶もない。

 鬼炎家といえども、俺のパーソナルデータにそんなセリフ、わざわざ記載するか?

 ただの、酒に酔った時や、気分がよくなったときの、おふくろの口癖だぞ?

 それこそ親父とのなれそめのときにしか、話はしないような、嘘かもわからない思い出話だぞ?

 そんな話、この鬼炎家では口にしてはいけないだろうから、俺はとにかく黙っていたんだぞ?


 それを――なんで、リオが知っているのだ。


 思わず周囲を見渡してしまう。

 それから、目の前の『敷地内では一番小さい洋館』を見上げた。


 こんな生活、慣れていないだって?


 ――それは嘘だ。


 俺はやはりこの生活に、慣れていたのかもしれない。

 気づかない間に、洋館の姿にさえ、違和感を感じなくなっていたのだろう。


 なぜならば。

 急に、洋館を含む鬼炎家全体が、俺の体を呑み込まんとする化け物に見えたから。


 俺はいま、なにか得体のしれない大きな渦のなかに、誘われようとしているのではないか。


「――リオ、お前は、なにかを隠しているのか……?」


 バタン、と閉まった洋館の扉は、まるで鬼の口のよう。

 だが、その口が答えを発することはなかった。

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