第6話 夜食中に、からまれてます。

「えっと……これを、ここに代入して……」


 俺はかつてないほど真剣に、カリカリとペンを動かして、数式を解いている。

 こんなに勉強したことは、これまでの人生の中で一度もない。

 だが、成績が良くならなければ、俺はこの家を追い出されてしまうのだ。もちろん命まではとられないだろうが、その先の人生の事は分からない。


「失礼いたします。お夜食をお持ちいたしました」


 静かな声と共に、静かすぎる所作で入室してきたのは、他でもない、年下で後輩でクールで……いや、クールにみせかけて、その実、うざったいからみをしてくる専属メイドの『水無リオ』である。


「……もうそんな時間か」


 目に届かない位置に時計を置いている。

 時間管理は大事なのだが、俺はその手前のレベルであることを自覚したからだ。

 勉強というものをするとき、早く終わらないかなーと思ってしまっている。だから、まずは時間を意識しないように頑張っているというわけだ。


 ……そういえば、これもリオが教えてくれたんだよな。

 ……なにか、別の意図、ないよな。


「リイチ様? こちら、お夜食でございますが……」

「あ、ああ。いつもありがとうな」

「いえ、これが仕事ですから」


 どうやら今のリオはクールモードらしい。


 距離感がとても難しい。

 もちろん、こいつの内面は知っているつもりだ。しかしそれは個性ともいえる。

 こうやって、きちんとメイドとして、やってくれているならば、俺はきちんとお礼を言いたいし、言うべきだろう。

 だって、そうだろ?

 リオだって、眠いはずなんだし。

 勉強だってしたいだろう。

 今の時刻は23時。

 自慢じゃないが、新聞配達をしていたころは、21時にはぐっすりと寝ていた。

 他人のために23時まで起きているリオを、俺はやっぱり心のどこかでは尊敬しているのだ。それが仕事だとしても。


「リオ。先に寝て良いぞ。もう十分だから」


 提案すると、リオはやはり笑うことなく、クールなモードで言った。


「いえ、お気になさらないでください。これがわたしの責務ですので」

「そうはいっても、お前も眠いだろ? 健康にも悪いだろうからさ」

「リオを心配してくださっているのですか……?」


 この反応は、別に目新しいものではない。

 表情筋を一切動かさずに、声音だけで、あたたかい感じが伝わってくる言いぶりは、俺がまんまと騙されたテクニックである――が、勝手に騙されていたのだから、文句はいうまい。それはさすがにリオに失礼だと思う。

 何度も言うが性格は自由だしな。


 リオは小首をかしげた。


「それとも、おっぱいの心配ですか? おっぱいの質が落ちる恐怖を感じていらっしゃる……?」

「そんな恐怖を覚えたことはない!」


 心配して損した。

 よくよく見てみれば、こいつ、クールモードが解除されている。

 口元をみれば、唇を口内にまきこむようにして入れて、あまがみしている。完全に笑うのを耐えている証拠だ。

 持っているお盆だって、抱きしめている手がプルプルしてるじゃあないか。

 なんで23時にクールモードの間違い探しをさせられてるんだ、俺は。


 リオは何ごともなかったように、先を続けた。


「さ、リイチ様。今日はいつもと趣を変えて、ホットココア&塩クッキーだそうですよ」

「お、いいな、それ」

「夜に小麦系を摂取するのもアレな気がしますが、とっても美味しいです」

「……まさか、運んでくる間に食った?」

「失礼ですね」

「すまん」

「運ぶ前にお皿から一枚くすねただけです」

「謝罪を返せ」


 ココアをすする。ついで、塩クッキー。あまじょっぱい。すばらしい。

 さすが木之下さんだ。きっと手作りなんだろう。最初みたときは、夜の世界のこわもてだと思ったけど、過去に戻って謝りたいぐらいだ。


 ふっと横を見ると、リオがクールモードを完全に引きはがして、頬をふくらませていた。

 なんでか怒っているらしい。


「むー……」

「なんだよ、食べたいなら、やるぞ。つうか一枚食ったんだろ」


 よくみたら唇の端に粉が付いている気がしないでもないが……まあいいや。


「そうじゃないです。先輩、すごい嬉しそうじゃないですか」

「そりゃ嬉しいだろ。いろいろあったけど、木之下さんと出会えたことは、すっごい嬉しいんだ」

「わたしには、そんなこと言ったことないですよね」

「ちょっとまて、木之下さんのことは別だろう?」


 実は今度、木之下さんに料理を教えてもらえないかと聞こうと思っている。

 多分、拒否はされないと思うけど……でもどうだろうか。ああいう人って、プロ意識が高そうだしな。何回か断られるかもしれない。

 そもそも『鬼炎家』の人間が厨房に立つことは許されないかもしれない……。


「にやにやしちゃって……いやらしいです。どうせえっちなことでしょ?」

「そんなこと考えてない」

「勉強中に、わたしのおっぱいの写真見てるんですか?」

「あれは消したろ!」

「本当に消したかなんてわかりませんし? ゴミ箱アプリで、一回ストックしてるかもしれませんし? なんなら復元できますし?」

「っく……別に、信用できないなら、それでいいさ」


 俺は気をとりなおして、クッキーを口に入れた。

 ああ、おいしい。

 自然と笑顔になるな。


 やっぱりリオがふくれっつらだ。

 

「先輩。お口の幸せだけじゃあ物足りないでしょ? 他の五感も幸せにしたくないです?」

「もぐもぐ――む?」

「たとえば、触覚とか」

「……?」

「おっぱいもみます?」

「ぶふぉ!?」


 ココア、噴射。


「わ、きたな……」

「お前のせいだろうが!」


 な、なんてこといいやがるコイツ。

 いくらなんでも、言っていいことと悪いことがあるだろうが!


 リオはタオルで机をふきはじめた。


「お気を付けください、リイチ様。ココアの汚れは落ちにくいです」

「リオ。一つだけ言っておく」

「はい、リイチ様」

「俺はだな、お前に、その……感謝はしてる」

「いえ、お気になさらずに。仕事ですから」

「仕事でも……だ。仕事でも、やっぱり、身の回りのことをしてもらえるのはありがたい。これまでは、朝も夕方もバイトだったし、最近はおふくろの看病とかもあったし、勉強なんてできなかったからな」

「……そうですか」

「だから、な。だからこそ、あんまりそういうこと、言うな」

「そういうこととは?」」


 ……ちくしょう。

 クールモードを前にしてしまうと、なんだか『おっぱい』とか言っていたリオを忘れてしまうな。こっちの性格のほうが付き合い長いから当たり前なのだが。


 俺は意を決した。

 これはお互いの関係のためなのだ。


「だから……おっぱいを、触りたいですか?、とか聞くなってことだ」

「……え?」

「え、じゃない」

「わたし、そんなこと言ってないですけど……」


 クールモード解除。

 リオは怪訝そうにこちらを見る。


「い、いや、さっき言ってたじゃないか」

「さっきっていつですか」

「だから、さっき『おっぱい、揉みます』って。揉ませようとするのは、おかしいだろ」

「……ああ、なるほど?」


 リオはポカンと口をあけたあと――にやり、と笑った。

 それはもう、なんていうか、これ以上の物はないぞってぐらいの宝物を見つけたような、そんな笑みを浮かべた。


 なにか……やっちまったのか!?


「リイチ様、よろしい

ですか」

「な、なんだ」

「私は、たしかに『おっぱい』と言いました」

「それも、言わないでほしいんだが……」

「でも、わたしは『揉みます?』とは言ってません」

「はあ? だって――」

「――『おっぱい“も”見ます?』と言っただけです。これまでと同じことを言っていただけで、何か発展させたわけではありませんよ。おっぱいの写真の話です。レベルあげちゃってるのは、リイチ様のほうですよ」


「……、……」


 俺は頭の中で、二つの文章を転がした。


『おっぱい、揉みたいですか』

『おっぱいも、見たいですか』


 おう。

 なんだこれ。


「ふふふ……先輩、そうですか、そうだったんですか。先輩はなんと、見るだけでは飽き足らず、果ては、わたしのおっぱいを触りたかったんですか……! なるほどそうですか、そういうご趣味があったとは、リオ、気が付きませんでした。そうと分かれば……やってみます?」


 リオの目がすっと細くなる。

 どこか――なにか、年上っぽい雰囲気が出ている気がする。


 俺は必死に否定した。


「い、いや! 違う! 違う! 聞き間違えたこと認める! だが、それとこれとは別だ!」

「ふふふ……慌てる先輩、かわいーんだ。写真とっちゃおー」

「とるな! とるんじゃない!」


 ああ、なんて夜だ。

 墓穴を掘ってしまうとは、なさけない。

 これ、明日からどうなるんだろうか……。

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