第9話:宇宙天気予報

『8月16日15時の宇宙環境情報です。なお、情報は全てUTCでお知らせいたします。はじめに概況です。太陽活動は、やや活発でした。今後は静穏となるでしょう。プロトン現象は発生していません。今後ともプロトン現象は発生しないでしょう。地磁気活動は、コロナホールのためやや活発でした。今後ともコロナホールのためやや活発でしょう。短波伝搬状態は安定でしょう。デリンジャー現象は起きないでしょう。』


「そうね、ちょっと早いけれど、出発するなら明日がいいかしら。パシフィックスペースラインの予約が取れればいいけれど。」

「もう動き回れるのか?」

「ええ、おかげさまで。」

 イリアはずいぶんと地球に熱心だ。

「仕事の都合上、月での出産だったけれど、やっぱり子供は1Gで育てたいわ。思想とかの問題ではなくて、海で泳いだり山に登ったりして楽しく健康的に暮らすの。」

 そういうイリアの顔はこちらも幸せな気分になれるくらい幸せそうだった。

「前からききたかったんだけど、イリアは日系なのか? 立ち振舞が日本的だし、君を見ているととても懐かしくなるんだ」と僕。またノスタルジア。

「そうよ。しかも東京生まれの東京育ち。江戸っ子! 父は軍の士官で私も軍の通信班担当なの。母はカナダ系の日本国籍。日本で英語の先生をしているわ。マーカスとはよく一緒に遊んでいたわ。マーカスったら私が12歳のときにいきなりキスを奪って、そのときに約束したの、大きくなったら……。」

「お、おい、やめてくれよ……。」

「いいじゃないの。あのとき私、本当に嬉しかったんだから。」

「はずかしいから言わないでくれよ。」

 あれから、僕とマーカスは何事もなかったかのように過ごした。いつもよりもスムーズとはいえないけれど、そうしてくれると僕としても助かった。今でも不思議に思う。何故マーカスはあんなにもむきになったのかが判らなかった。そして、何故僕もあんなに取り乱してしまったのかも。


 国際宇宙港のロビー。まずくて高いコーヒーを飲みなから吹き抜けの天井を見上げていると、また勇気が湧いてきた。ちょっとしたことで落ち込んだり、気分が高揚したり、そんなことを繰り返しながら同じところをぐるぐると回ってしまう。大げさな当たり前の連続。でも、僕は思うのだ。それは螺旋階段で、同じ繰り返しのようでも必ず上へと向かっていると。大切なことは歩みを止めないことだと。行き着くそこに、あのひとは待っているのだろうか。

 搭乗手続きを済ませるとき、僕はイリア達がいないことに気が付いた。

「イリアはファーストクラスです。私は先輩とエコノミーです。お金ないしね。」

「そんなこといっても給料は変わらないぜ。」

「そんなつもりで言ったのではありませんよ。私は今のままで十分満足しています。」

「はいはい。今が幸せだからか?」

「解かりますか?」

 過去をなつかしがれるのは今が幸せだから、か。そしてノスタルジア。


『当機はただいま出航のために減圧処理を行なっております。気分のすぐれないお客様はお手元のコールボタンを……』

 座席に着いてベルトを締める。いつもそうだが、出航前の減圧過程で緊張してしまうのだ。それはマーカスも同じらしい。

「デブリ屋がこんなことで緊張するのも変だよな。」

「そんな事ないですよ。私も同じです。自分で運転する分には酔わないけれど、客として搭乗すると緊張しますよね。」

「なあ、緊張を紛らわすために何かジョークを言ってくれないか? 取って置きのルナリアンジョークを一発かましてくれ。」

「ジョークは苦手なんですよ。」

「何でもいい。今は質より量なんだ。」

「では、こういうのはどうです? 『大統領、良い知らせと悪い知らせがあります』……。」

「それはアメリカンジョークやないかい!」

 僕たちは一緒にくすくすと笑った。そうさ、俺達は最高のパートナーだ。

 減圧処理が終了し、出航の準備が整った。機内の照明が暗くなり緊張感が高まる。緊張感の理由は他にもあるけれど。

「あれからメッセージについて考えてみたよ」僕は言った。

「どう思いますか?」

「Fly me to the Moonだろ? そのとおりだ。僕は難しく考えすぎていたな」僕は手元の端末でファイルを開いた。オルゴールの音で“Fly me to the Moon”が流れる。


私を月へ連れてって。

星空に囲まれて遊んでみたいの。

木星や火星の春を私に見せて欲しいの。

言いかえると、私の手を握って欲しいってこと。

早い話が、私にキスしてってことよ。


 バート・ハワードやフランク・シナトラがこの歌を歌っていた時代には、まさか地球から38万キロ先の月に住むことが当たり前の世の中になっても自分の歌が歌われつづけるとは思わなかっただろう。そして、地球と月との間を伝わって思いを託すようになるとも思わなかっただろう。

「でも、これからもエツコとは相変わらずな関係が続くと思うんだ。」

「それも先輩らしくて良いのではないでしょうか。あの、この前は本当に済みませんでした。私はどうかしていたんです。他人事のようには思えなくて。」

「気にするな。お前の方が正しいよ。僕はああいうキツいパンチをもらわないと動けない人間なんだ。結局、12歳のときにイリアのキスを奪ったお前が正解、という訳だな。」

「それは言わないで下さい……。」


 スラスターの軽い振動が音もなく伝わる。

「さてと、思い切って聞くが正直に答えて欲しい。おれたちゃ最高のパートナーだ。これから先どんなことがあってもそうだ。だから正直に話して欲しい。」

「なんでしょうか?」

「なあマーカス。お前地球生まれだろ。何故、自らをわざわざルナリオンだと偽ったんだ?」

「……。」

 シップが音もなくHOMEへ向けて出航した。

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