第7話:Fly me to the moon

「ちょっと、何時だと思っているの? どうしたのよ、こんな時間に。」

パジャマを着たエツコが目を擦りながら発した第一声はこうだった。ありがとう。僕たちはまだ日常を共有しているんだね、と喜ぶのも束の間、今度は深夜にコンタクトした理由を考えなければいけなくなった。我ながら向こう見ずな人間だと思う。

「あ、いや。今ね、月にいるんだけど。ちょっとコネがあってね。ニュートリノ通信のテストで地球にリアルタイム通信を試みているところなんだけれど……。ごめん、時差を忘れていた。」

何故か僕はいつも彼女に謝ってばかりだ。くだらないことで起さないでよと、またどやされるのかと思ったが意外にも彼女はこの話に乗ってきた。

「え、本当に月から? すごい! 全然ノイズが入ってないわ。音の劣化はどうなのかしら? ちょっと 『さしすせそ』 と 『ぱぴぷぺぽ』 って言ってみて。」

 僕は言われるままにエツコに頼まれたことばを繰り返していた。何とかその場はしのげたものの、冷静に見るとすごくシュールな光景だ。愛しの君に月から 『ぱぴぷぺぽ』 を送る男。

「さすがニュートリノね。まるでその場にいるみたい。中継は?」

「多分、日本だから神岡だと思う。あの、聞いてほしいんだ。」

「あ、ごめんなさい。テスト中だったわね。どうしたの?」

 僕はそこでことばに詰まってしまった。なんと言えばいいのだろう。いや、何を言えばいいのだろう。勢いに任せて今までのことを話した。仕事のこと。マーカスのこと。そして子供のこと。一度話し始めたら止まらなくなってしまった。ジオプラントのことなど。話と話との間に不自然に入る沈黙。そして、ノスタルジア。

 一番伝えたいことばが、声にならない…。

「で、しばらく船を下りようと思うんだ。マーカスも子供と一緒にいたいだろうし。暫定的に新しいパートナー見つけるよりも長期休暇をもらったほうがいいかなって僕も思ってさ」

うん、とうなずくエツコ。目が『それで?』といっている。

「一ヶ月ほど休みを取ろうかなぁって。」

 いいんじゃない? というエツコ。目が『そして?』といっている。

「地球にそのうち帰るから、そしたら…そうだな、え~と……。」

「どうしたの?」

「飲みにいかないか?」

「え?」

「いや、ほら。宇宙じゃ酒飲めないし。久しぶりに飲みたくて。おごるよ。」

 エツコはほっとしたような、ガッカリしたようなため息をついた。

「いいわ、帰ってきたらちゃんとおごりなさいよ。」

「……ごめん」僕はまた謝った。

 もう…肝心なところで冒険心がないんだから……、とエツコは思った。

 通信を終わらせようとしたときエツコが言った。

「添付ファイルを送るわ。このなぞなぞが解けたら私がおごってあげる。」

 バート・ハワードの“Fly me to the moon”の音楽と一緒に、ディスプレイにはその「なぞなぞ」が映し出された。


It is the beginning of the eternity and the end.

(それは永遠と結末との始まりであり)

It is also the end of the time and the space.

(時間と空間との終わりでもある)

What is it?  Let me know my dear astronaute.

(それってなあに? 教えて私の宇宙飛行士さん)


「おやすみなさい、宇宙飛行士さん。ちゃんと考えてね。」

「ああ、答えられたらおごれよ。」

 お互いが、今よりも深く寄り添うための、魔法のことばを知っているのに使えない。そんな関係が歯がゆくも心地よかった。このままじゃいけない気がするけれど、今はこの気持ちに浸らせて欲しい。そしてノスタルジア。

 肝心なところで冒険心のない宇宙飛行士は、なぞなぞを記録すると、“Fly me to the moon”を歌いながらブースを後にした。

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