第6話:月から地球を想う

 マーカスの妻に会うのに何で緊張しているんだろう。落ち着かない自分に気が付いた時、エレベータのドアが開いた。ルナベースの空気は暑くもなく寒くもない。いや、暖かくもなく涼しくもない。まるで気温というものが気付かれてはいけないかのように隠れているようだ。快適な温度を保っているはずなのに快適さはあまり感じない。

「落ち着かないなぁ。」

「いつもの先輩でいてくれればいいですよ。」

「やっぱ作業着のままはまずいだろう。ちょっと着替えて…」とそう言おうとしたとき、病室の窓から手を振って呼びかける声がきこえた。

「イリア。ただいま。そしてお疲れ様。よく頑張ったね」とマーカスはその女性を抱きしめた。産後のやつれもあまりなく健康そうな顔立ちだった。ガラスで仕切られた隣の部屋には小さな乳児がカプセルの中で寝ていた。月で生まれる。前世紀ではある種の羨望の対象でもあったいのち。そして、少し前までは蔑視の対象となっていたいのち。

 僕には決して見せないようなマーカスの横顔を見ながら僕は、マーカスも一人の男なのだと、そのときになって改めて思った。何故だか今なら彼らを心から祝福できるような気がした。

「始めまして! マーカスの妻、イリアです。主人がいつもお世話になっています。」

 突然話し掛けられて我に帰ると、イリアが恭しく頭を下げた。とても、日本的なやり取りだ。なつかしい。

「こちらこそ、始めまして。驚きましたよ、コイツったら結婚しているなんて一言もいわないから。」

「そうなのよ。マーカスったら聞かれたことしか言わないのよね。この前もそう。三区のショッピングモールで……」

 楽しそうな顔をしながら話を聞き流している僕に、マーカスはイリアの後ろでやれやれという顔をしていた。どうやら話し始めるととまらない性格のようだ。そんなイリアの嬉しそうな顔を見ながら僕はふと、きれいな目をしているな、と思った。黒い髪、茶色い目。さっきの挨拶といい日系の人かもしれない。僕はエツコを思い出していた。

「思ったんだけど君は日系なのか? 立ち振舞が日本的だし、君を見ているととても懐かしくなるんだ」と僕。

「そうよ。しかも東京生まれの東京育ち。江戸っ子! 父は軍の士官で私も軍の通信班担当なの。母はカナダ系の日本国籍。日本で英語の先生をしているわ。マーカスとはよく一緒に遊んでいたわ。マーカスったら私が12歳のときにいきなりキスを奪って、そのときに約束したの、大きくなったら……。」

「お、おい、やめてくれよ……。」

「いいじゃないの。あのとき私、本当に嬉しかったんだから。」

「はずかしいから言わないでくれよ。」

 しばらく当り障りのない話をしながら、何故かこの場を離れなければいけないような、そんな気持ちになった。

「さてと、二人とも積もる話もあるだろう。レポートは僕が送信しておくよ。しばらく休暇を取るつもりだ。僕もちょっとばかり用事があるし、今日は自由にしていいぞ」と言ってそそくさとその場所から逃げ出した。

 さてと、どこに行ったら良いものか…。これといって用もないし…。不思議な感覚だ。彼らの幸せを心から喜んでいる自分と同時に、居場所のない自分がいる。

 僕は月で働いている学生時代からの友人にあてもなく電話をしてみた。およそ2年半ぶりの再会になるだろう。でも、不思議と久しぶりに会うという感じがしない。かれは大気環境鑑定士で、ルナベースの空気・気圧の管理をしている。僕らの中では一番の出世頭だ。


「よう、しばらくだな。なんだお前今、月にきているのか? 電話してくるってことは暇なんだろ? ちょうど良かった。これから一緒にジオプラントにいかないか?」と友人は2年半ぶりとも思わせないほど何の屈託もなく返事をくれた。

 こうなると話ははやい。僕は近くのフォートラン・カフェでサンドイッチと500ccのコーヒーを買って待ち合わせ場所に急いだ。

 僕は地図を見ながらジオプラントへ向かった。友人はすでについていた。

「おおい! こっちだ。少し太ったんじゃないのか? 今はデブリの回収をやってんだって? 相変わらず無鉄砲な人生送っているな。」

「つまらない毎日さ。お前の生え際ほどの変化もない。」

「言うなよ、少しは気にしてんだからさ。」

 僕達は学生だった時となにも変わらない調子で軽口を言い合った。やっぱり電話して正解だった。

 ジオプラントのエントランスでは、こんな時間に珍しいとでも言いたげな受け付けのおじさんが僕らを迎えてくれた。

「午後三時から午後九時までの間は雨となりますので、それまでに一時退場していただくことになります。それ以上の滞在を予定されていらっしゃるのでしたら雨具を御貸しいたします。」

 プラント内は照射用放熱ライトで少し蒸し暑かった。

「植物の環境に最適化されているからね。少し暑いだろ」と彼は言った。

 確かに暑くて快適とはいえないが、でも「心地よい」ということばがぴったりだった。空気に存在感があった。

「雨の時間が決まっているなんて便利だな。」

「まあね。でも季節はないぜ。オレは地球が恋しいよ。」

「地球が懐かしいかい?」

「懐かしいというか……、やっぱ恋しいのかな。」

 サンドイッチを食べながら僕達はいろんな話をした。そういえば固形の食事は久しぶりだ。喉越しが気持ちいい。

「大気環境鑑定士なんて仕事をしていると時々思うんだ。もともと当たり前だったものが何でこんなにも大げさなものになっちゃったんだろ、って。」

 遠い目をしながらそう語る友人は、ふと僕の視線に気が付いたのか、少しおどけたような調子で話を締めくくった。

「ま、そのおかげで飯食っていけるんだけどな。」

「きっと、人生は大げさな当たり前に満ちているんだよ」と僕はコーヒーを飲み干しながら言った。


「なあ、話はかわるんだけどさ。いや、そんなにかわらないんだけど……。」と僕。

「そんな昔や想像の世界を『なつかしい』と思ったこと、ない? もしくは初めて来た土地なんかにさ。」

 友人はちょっとだけ驚き、そしてすぐに「相変わらずだな」という表情で僕の質問に答えてくれた。

「そうだな…、今とは違うものならきっと何でも懐かしいんだよ。過去でも未来でも虚構でも。完全な虚構の中にも、今の一端を垣間見るとよけいになつかしくなるね。『懐かしさ』というものは、なくなってしまったけれど捨てられないものに感じるんじゃないかな。オレは『タイヤのない車』という未来的発想にこそ懐かしさを感じるね。今から考えると燃焼効率悪すぎるよね。でもきっと未来の車はこうだと考えていた時代は、図らずとも誰もがエネルギィが無限にあると思っていた時代なんだろうな。今とは違う未来を期待するからこそ、そこに『懐かしさ』が生まれるんだよ。」

 彼は水筒の紅茶を飲みながら続けた。

「僕らの再会に懐かしさはあったかい? あったならそれは今このときが懐かしいのではなくて、学生時代に一緒にバカやってたことが懐かしいのかもしれないな。なければ今とそのときがあまり変わらないからだと思う。」

 なるほどな、と思った。でも、マーカスは月を見ながら「なつかしい」といっていたのを思い出した。彼が失ったと感じた大切なものは何だったのだろう? 

過去をなつかしがれるのは、今が幸せだから、とマーカスは言った。でもそれは僕の懐かしさとは少し違うような気がする。

「うん、ちょっとだけスッキリした。ありがと。」

 不思議だな。学生時代のときからそうだ。コイツの前だと素直になれる。

「じゃ、そろそろ行こうか。仕事に戻らないと。」

「え! 仕事中だったの? 大丈夫か?」

「大丈夫だって。そのためにここに来たんだ。ジオプラントの記録をみるためにね。正直言うとオレも一息入れるところだったし、そんな時にお前からの電話だったからちょうどよかったよ。」


 懐に隠し持った思い。その箱をそっと開けるとき、懐かしさが拡がるのかもしれない。過去でも未来でもなく。今でもない大切な思いを、今に抱くということは、それはそれで幸せなことなのかもしれない。

 でも、僕は彼のことを懐かしいとは思いたくない、と強く思えるような友人にめぐり合えたこともまた幸せなことだと思う。僕は、懐中時計で時間を確認するように当たり前に、友人達と人生を懐かしがることができる老人に、いつかなれたら素敵だな、と思った。そしてそういう思いが募るほど、独りになることが怖くなった。誰も居ないところへ行きたくて宇宙に飛び出したくせに……。宇宙の孤独は、人間一人には重過ぎるのか?

 そんなことを考えているうちに僕はふと、エツコのことが気になった。僕は今ごろになって彼女の日常になりたがっていることに気が付いたのだ。彼女の大げさな当たり前になれたらそれは素敵なことだろう。『久しぶりね』なんていわれたら泣いてしまいそうな気持ちを胸に秘めながら、僕はテレネットブースへと向かった。

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