第5話 焦り

 お腹の中に重い何かが乗っかっていた。息が苦しくて、体を動かすことさえままならない。起き上がることもできない。

 苦しい。誰か、助けて、誰か。

 突然顔を舐められて、ユキは驚きパッと目を開けた。目の前には口を開けて嬉しそうに雪の顔を舐めるジャーマンシェパードが居た。雪の腹の上に堂々と立ち、ユキが起きたのが分かると、ユキの体の上に伏せをして、嬉しそうに尻尾を振っている。

 そこでやっと警察犬になるようなジャーマンシェパードが腹の上に伏せしていることが分かった。

 一瞬なぜこんなところに犬がいるのか。


「可愛いけど、重い」


 頭をなでてやると、ユキの隣に横になり、お腹を出した。それを見て起き上がり、周りを見渡してみた。パソコンが置かれたテーブル、段ボールが重なり置いてあり、本棚が置かれている、床にはカーペット。部屋の引き戸が少しばかり開いている。

 この部屋をユキは初めて見た。昨日の記憶は高級車で寝たところで途切れていたためだ。

 ベッドに座りこんで、部屋を眺めて呆然としていると、部屋の扉をノックされた。扉の方を見てみると、黒色の丈の長いスカートと白色のエプロンを着た。中世ヨーロッパのようなメイドが立っていた。まだ二十代ぐらいで、きりりとした釣り目をしている。


「おはようございます。私家政婦の、代々木と申します。初めまして。お嬢様」と代々木はユキの隣でお腹を出すジャーマンシェパードを見た。「その犬は旦那様が飼っていらっしゃる。チョコです」


 お嬢様という言葉が引っかかりながらも、すでにメイド服を着ている時点でもうユキの知っている家政婦ではなかったために、そこを突っ込むようなことはしなかった。


「は、初めまして。菅原ユキです」とユキは立ち上がって頭を下げた。

「旦那様からお伺いしております。今日は区役所へ行って、届け出を出しに行くそうです」


 お嬢様という言葉がユキには引っかかった。どうやら代々木は本当にメイドというキャラクターを突き通したいらしい。それから部屋の中にまだそのままになっている段ボールに目を向けた。


「本がお好きなんですね」

「まあ、そうですね」


 俯くユキに向かって代々木は「いらっしゃってください。家の中をご案内いたしますので」と言った。そのためユキも立ち上がって裸足で行こうとしたのだけれども、代々木がベッドの下のスリッパを指さしたので、そのスリッパに足を入れた。

 部屋から出て、左右に廊下があり、左には玄関、右にはリビングにつながっている。代々木はリビングに近い部屋の扉を開けた。そこは洗面所と奥にはお風呂。洗面所は広く、二人同時に歯磨きだって、洗顔だってできる。


「あの、叔父さんは、どこにいますか」


 鼓動が早くなっていくことをユキは感じていた。なぜならばアオイはユズヒの真意である遺書を見せてくれると言ったから。


「あちらのリビングで朝食を食べていますよ」


 まっすぐと代々木が指さした方をユキは、見ると早歩きでリビングの方へ歩き、扉を開けて、広い部屋の中を見渡した。ソファやテレビが置かれているリビングにはいない。部屋の中に入って、左を見ると朝食を食べるアオイの姿があった。

 目が合った途端にユキはずかずかと、サンドイッチを食べているアオイの方へ歩み寄った。


「お母さんの遺書。読ませてください」


 サンドイッチを飲み込み、コーヒーを一口飲んだ。


「厳密に言うと、遺書の代わり。遺書ではないよ」

「それでいいです。とにかく私は、確かめたいんです。母が死んだあの日は、朝母とケンカをしたから。私には後悔しかないんです。だから、母の真意を、何を思っていたのかと、知りたいんです」

「良いよ。もちろんだとも。そこに座って待ってて」


 立ち上がったアオイは代々木とすれ違いざまにリビングを出て、扉が開く音がした。

 リビングの扉を眺めているユキに向かって、代々木は「牛乳にしますか?オレンジジュースにしますか?」と尋ねた。唐突にそんなことを聞かれたためにユキは面食らった。


「え、っと、牛乳で」

「ホット?アイス?」


 牛乳のパックを持って代々木は首を傾げた。


「え、ええっと、ホット?」

「蜂蜜も入れておきますね」

「は、はあ」


 朝からホットミルクに蜂蜜を入れるなんて、なんて贅沢なんだろうとユキはぼんやりと思った。


「ユキちゃん、こんなにあるんだけど、全部読む?」


 茶色の封筒に入った重そうな束を両手で抱えて、アオイが戻ってきた。まさかそんなに多いとは思っていなかったユキは驚いたけれども頷き、分厚い茶封筒を両手で持って、中を開いてみた。

 数えきれないほどの紙がぎっしりと詰まっている。


「これで、十六年分、ですか?」

「これが、あと二つあるよ」


 決意を固めたユキは茶封筒を抱きしめて「全部読ませてください」とはっきりと告げた。

 コーヒーを片手にアオイは「もちろん」と優しく言った。

 さっそく読み込もうとしたのだけれども、その茶封筒を代々木が上からスッと抜き取り、ホットミルクをユキに差し出した。


「お嬢様は信じられないほどに細いではありませんか。それはしっかりと朝食を食べてからです」

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