第2話 昔の母
ファミレスの中でユキはジンジャエールを飲んでいた。目の前に座るアオイのことを眺めている。身なりはしっかりとしていて、職業は経営者。そのためにユキはこんなところで食事をするのが珍しいと思った。それにクレジットカードの最上級であるブラックカードを保有している。
「お母さんと一緒に住んでいたこの町を離れるのはいいの?」
「大丈夫です。こんな町にいるより、都会に行きたいんです」
ストローを齧るようにしてジンジャエールを飲み、メニューに視線を移した。大量のフライドポテトに視線を移した。でも食欲はない。
「叔父さんもそうだった。だから東京へ行った。それで、ユキちゃんのお母さんにすべて押し付けて逃げたんだ」
まるで子供と会話するかのように一人称を叔父さんと言っていることに、ユキは腹が立った。
「じゃあ、母に罪を償うために、私を引き取ってくれるってことですか?」
少しばかりの沈黙が流れて、アオイは「うん、そうだね」と答えた。その返事にユキは憤りを感じた。でもそれを表に出すことはしない。頭では何かしらの事情があり、何かしらの理由があるとわかっていたから。でも感情を頭だけで制御することは難しい。
「なんで、ですか」
「本当は二人で逃げたかった。でも環境が悪かったんだ。これはお母さんに託されていたことだから、すべて話すよ」
託されていた。それを聞きユキはアオイの方をしっかりと見て、一言一句聞き逃さないよう、耳を傾けた。
「叔父さんとお母さんはもっと北の方、青森に近い方に居たんだ。あそこは本当に田舎で、男尊女卑とか、年功序列とか、そういう古いしきたりみたいなものが色濃く残っていたんだよね」
その場所をユキは知っていた。年に数回、母であるユズヒと一緒に祖父母が居る老人ホームに行っていたためだ。そのため、周りの環境も知っている。周りの人たちは優しいけれども、みんなユキやユズヒのことを親族のように馴れ馴れしく話しかけ、それは違和感でしかなかった。
「お母さんは毎日、ユキちゃんのお祖母ちゃんに家事をさせられていたけれども、叔父さんはというと、長男ってことで両親も周りの人間も甘かった。でも姉さんが働かされているのが嫌だった。だから僕は、姉さんが家事をさせられれば、一緒に家事をして、老人の相手をさせられれば、僕も一緒になった」
感傷的になったためかアオイは一人称を『僕』と変え、ユズヒのことを『姉さん』と言い換えた。
「そこは本当に狭かったから、姉さんが初潮を迎えた時、なぜか近所の人が赤飯を持ってやってきたりしたよ。本当に気持ち悪かった。それで、高校を卒業したら一緒に逃げようって姉さんと約束したんだ。それで姉さんが卒業して地元の弁当屋に勤め始めて。僕も卒業したときやっと出ていけると思った。でもちょうど父親の足が不自由になって働けなくなってね。母親は父親につきっきりで、姉さんは両親のために働くと言ったんだ。僕は逃げようとした。今まで姉さんに散々なことしてきたんだからって。でも姉さんは聞く耳を持たなかった。それで、僕だけ東京へ逃げた」
今にもユキはアオイを殴りつけてやりたかった。ユキにとってユズヒは人生でただ一人の大切な人間だった。友人よりも、恋人よりも、何よりも大切な、母親だった。だからユズヒを裏切ったアオイに、はらわたが煮えくり返った。
「なんで、お母さんを裏切ったんですか。お母さんと一緒に居てくれたら、お母さんはあんなに苦労する必要なかったかもしれないのに」
何度も何度もユキはユズヒから、両親の介護はとても大変で、怒鳴るし、ご飯に文句をつけるし、パチンコへ行かれてお金は無くなるし、とその苦労を嫌というほど聞かされていた。だからユキは母であるユズヒの気持ちが分かっているつもりでいる。
「そうだね。でも僕は姉さんと一緒にそこに残り続けることが本当に良い事なのか疑問に思った。だから東京でお金持ちになって、姉さんを両親から解放するという道を選んだんだよ。その結果半分成功、半分失敗というところかな」
「なんで失敗?」とユキがたずねた。
「両親を施設に入れるお金が手に入り、姉さんは完全に自由になった。でも恋愛という恋愛を経験してこなかった姉さんは美人だったから、いろんな男に引っかかっていたよ」
「男運が無かったって、お母さんから聞かされたことが、あります」
申し訳なさそうにアオイは苦笑いをした。
「それで祐二さんと結婚して。ユキちゃんを産んで。まあ、それなりに幸せだったんじゃないかな」
話しに区切りがつき、アオイは目を上げた。けれどもわなわなと震えているユキを見て申し訳なさそうに、視線を落とした。
堪忍袋の緒が切れたユキは勢いよく椅子から立ち上がり、椅子は通路に投げ出された。
「幸せなわけなかった!!」
近くにいたお客さんたちは驚き、ユキに向けて奇異な視線を向けた。
「そうかもね」
「お母さんは、お父さんの連れ子のお姉ちゃんと、お兄ちゃんにいじめられてた。お姉ちゃんは高校卒業したら家出したし、お兄ちゃんは二ートしてるし。クソみたいな父親は、私のこと東大に入れたがるし。離婚したらしたで、おかしな男に言い寄られてたし。ほんと、何も幸せじゃなかったよ。お母さんは……私のことだって捨てたかったに決まってる。だってずっと私がお母さんの自由を奪ってきたんだもん」
最後話し終わることにはユキの声は震えていた。大きな瞳には大粒の涙があふれて、ぽたぽたとテーブルの上に溜まった。涙をぬぐいながら、通路に倒れた椅子を掴んで、力が抜けたように、椅子に座った。
「叔父さんにはよくわからない。でもお母さんからのメールとかラインの履歴なら残ってるから、それを読んで、幸せだったんじゃないかって思っただけ」
「え……」
涙でぐしょぐしょに濡れた顔のままユキは目線を上げ、優しく微笑むアオイのことを見た。
「姉さんが死んで、姉さんからの連絡全部読み返して整理してみたよ。それを全部まとめて、東京の自宅に置いてある」
その瞳は真剣そのものだった。
「お母さんのことを大切に思っていたのはユキちゃんだけじゃないよ。僕も十二分に姉さんのことが好きだった。だから突然死んだ姉さんの遺書代わりになるものを自宅に置いてある」
「遺書」
「そう遺書。だから、それを読むためにも、叔父さんのところにおいで」
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