第3話 母親の死

 この目の前の光景が信じられなかった。


 病院の遺体安置所に寝かされた母の手は酷く冷たくて、私の体温で溶けてしまいそうだった。水玉模様につけられた、打撲の痕。怖くて母の顔にかけられている布を上げることが出来ない。死に顔なんて見れるわけない。

 そんな中で襲ってくる不安。これからどうやって生きていけばいいのか。母の死から自分の人生の岐路に立たされているようだった。その上、背後に立っている父が涙一つ流さないという恐怖。離婚したとはいえ、一度は愛した人が亡くなったというのに。腹違いの姉と兄だって、一度は一緒に生活した義母でしょ?

 でも私も涙が流れなかった。過度な悲しみ、恐怖、不安、そんな負の感情が体を取り巻くと、涙も流れないのだとその時初めて知った。流れてしまえばよかった。流れてしまえばこの感情もすべて涙が流してくれるのではないかと。


「お葬式どうするの?どこの会社に頼めばいいんだろう」

「できれば高くないところが。父さん、どうなの」

「とりあえず、こじんまりでいいんじゃないか」


 どうなるんだろう。私。母と父は私のせいで離婚した。私が父から教育虐待を受けて、兄と姉からも嫌われて、母も居場所を無くして。それからずっと私は母と二人で暮らしてきた。

 きっとこの世界に私の居場所はどこにもない。だって私は母だけが頼りだったんだから。

 突然だれかが私の硬直した肩に手を置いた。振り返ると男性の姿をした母が立っていると思った。母は美人でスタイルも良かった。その人も。


「ユキちゃん、だよね。叔父さんのこと覚えてる?」


 そこで黒波が襲ったように映像が切り替わり、ユキが瞬いて見えたのはホテルの天井だった。目をこすってみても、そこに映るのは古いマンションの木目調の天井ではなく、綺麗なホテルの天井。

 左を見ると、窓がありカーテンが閉めきられている。右を見ると扉があり、大きなキャリーケースが玄関の横に置かれていて、テーブルの上には昨日の夜食べたゼリーのゴミ。

 東京に行く途中だったのだ。アオイと。車がでユキのところまで迎えに来たためにユキはてっきり車で東京まで行くのかと思っていたのだけれども、あれはレンタルした車だった。

 ユキは枕元に置かれていたスマホに電源を入れると、七時十六分とデジタル時計の表示がされていた。

 ベッドから起き上がり、いつものようにスマホのニュースアプリを開いた。


「あ…」


 もう学校に通ってるわけじゃないからテストに出てくるような時事的な事なんて確認しなくてもいい。ニュースなんて確認する必要ないのに、ユキは開いてしまった。布団に足を仕舞ったままで、スマホをスクロールしてニュースをだらだらと眺めていた。

 いつもなら嫌いなブルーライトが心地よく感じた。

『新宿のタワーマンション、一億円以下ならお手頃?』

 こんなところ、無縁な世界だとユキは思った。

 そんな時突然、ピコンと通知が鳴った。


『起きていたら一階の食事スペースまで降りておいで。朝食ビュッフェが食べられるよ』


 母親の夢を見て、今も高いホテルに泊まって、夢のような気がしている。こんな高級なホテルに泊まって、朝食ビュッフェって。食べたことない。

 でも気分が悪い今、ユキは胃が空っぽの方が楽だった。

 着替えて、顔を洗って、髪を結って、一階へ降りた。通っていく人は皆、ユキとは世界が違っている人たちばかりな気がしていた。楽し気な人々。女性はお洒落で、スタイルが良くて。化粧をしている人もいる。


 ホテルの朝食を食べるレストランへ行く前に、ラウンジを通り過ぎようとしたところでアオイを見つけた。白のシャツに暗い浅葱色のジャケット。ジャケット同じ色のジャケットパンツ。なんだか同じような服装だなと思いながらユキはアオイをしばらく眺めた。

 窓の外を眺めながら誰かと電話をしている。もう四十代近いはずなのに、スタイルがずば抜けて良い。


「じゃあ、そういうことで。失礼します」

「おはようございます」

「おはよう、ユキちゃん。じゃあ、食べに行こうか」


 ユズヒとよく似た顔立ち。ユズヒは美人だという評判だった。昔は石油王に告白されたことがあるなんてユキに離したこともあった。そんなにている二人だから、ユキはアオイとユズヒを重ねて考えてしまう。


「なんで、ホテルに泊まったんですか」

「このホテルの朝食ビュッフェを食べてみたかったから。だってね、ここテラスで朝食を食べれるんだよ。本当は予約制で、長く待たなきゃいけなかったんだけどね」

「ブラックカード……?」

「そ、魔法のカードのおかげ」


 晴れた空の下、テラスで椅子に座って、丸テーブルに朝食が置かれている。ワイングラスに水と、コップにオレンジジュース。サラダとその上に生ハム、ローストビーフと、コーンスープと、シナモンロール、クロワッサン、オレンジとリンゴと、ヨーグルト。

 見ただけでユキは腹がいっぱいになっていく気がした。


「盛りすぎでは?」


 ほとんどアオイに料理を盛られた。


「残してもいいんだよ」

「残すのは、少し悪い気がしてしまいます」

「良い事だね」


 これ程の朝食を食べられるかどうかユキははなはだ疑問だった。貧乏人であったユキにとって残さず食べるが基本なために、必然的に食べなれたメニューを食べれるだけ皿に盛ったつもりだったのだ。

 パンを手に取って、千切ってコーンスープにつけて食べた。温かいけれども、に三口も食べればお腹がいっぱいになってしまいそう。昨日食べたゼリーだってどうにか喉を通った。


「彼氏とかいなかったの?」


 唐突にそんなことを聞かれて、ユキは驚いて「え?」とパンを口に含んだまま答えた。


「いないです。入学して一年とちょっとも経ってないですし」

「そっか。でもそんなあっさり高校転校してよかったの?」

「まあ」


 なぜそんなことを聞いてくるのかユキは少し腹がたった。あんな癇癪を起した祐二を見られたというのに、祐二と同じように秋田高校に残った方が良いのではとアオイも少しばかり考えている。


「お母さんが居ないなら、あの高校にいる意味ないですし」

「そっか」


 偏差値が高い秋田高校にユキが進学したのは、何よりもユズヒを守るためだった。ユズヒはなぜだか祐二と連絡を取り続けていて、祐二はずっとユキをとにかく秋田高校か、秋田高専に入れるように言い続けていた。それが分かっていたユキは秋田高校に入学し、祐二が何も言え失くするぐらいに勉強に力を入れていた。とにかくユキは祐二を黙らせたかった。ユズヒに関わらせたくなかった。

 入学した後は学校で主席を取るために死ぬ気で勉強して、睡眠時間を削った。友達も作らなかった。趣味もなかった。その暁には東大に入り、官僚にでもなれば、ユズヒを安心させて、幸せに暮らせると思った。

 だが、その要であったユズヒが無くなっては、秋田高校にいる意味もない。

 生きる意味も見当たらない。


 荷物をまとめて、人生二度目の新幹線に乗った。東京には二時間もしないでつくということだった。新幹線の中でユキはただ窓の外を眺めていた。隣に座るアオイはノートパソコンを開いて、ずっと仕事をしていた。

 これからどうするのかということだけをユキはひたすら考えていた。そうしながらただひたすらに窓を眺めていた。

 手を突然握られた。


「血、出てきちゃうから」


 膝に乗せていた手を見てみると、ずっと爪で甘皮をひっかいていた。そして甘皮がはがれて、ジクジクと血が出てきそうになっている。傷を見てやっと、その傷が痛いとユキは気づいた。

 ユキは今まで、確かに爪でひっかいてしまう癖はあったけれども、今までここまでひっかいてしまうことはなかった。痛みを忘れるほどに考え込むということはこれ如何に。


「絆創膏、貼ろうか。引っ搔いても大丈夫なように」

「……はい」


 指に絆創膏を張ってもらい、ユキは怒りなんてものは忘れて、申し訳なかった。怒りなんて感じていたこと自体も申し訳なかった。


「叔父さん、どこに住んでるか教えてくれてないですよね。東京二十三区に住んでたりするんですか?」

「新宿のタワーマンションだよ」


 その時ユキは、新宿のタワーマンション、一億円でも安い?というような記事を見たことを思い出した。


「一億?」

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