第二十二話 第四階層 フロロース②

ゆっくりと館の扉が開く。


はじめに目に飛び込んできたのは真っ赤な絨毯だった。広いフロアの中央に一直線で敷かれたそれは、皺も汚れも何一つなく、奥に向かってまっすぐ伸びている。


絨毯の脇にはこの館の使用人らしき者たちが整列し、頭を下げている。


最も手前にいた執事らしき男が、頭を上げると口を開いた。


「いらっしゃいませ、お客様。長旅大変お疲れ様でございました。主人は上の階でお待ちです。さあ、どうぞお入りください」


再び深々とお辞儀をする執事。並ぶメイドたちもそれに倣った。


驚くほど自然な所作をするNPCたちに、ハルは目を疑った。特に執事からは、この館に数十年勤めてきたという自負や貫禄、そんなバックグラウンドさえ透けて見えるようだった。


もちろんそんなことはないはずだが、ハルも敬意を示さずにはいられなかった。


「これはこれは、ご丁寧に。どうぞよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」


ハルとミオは、NPCとそんな挨拶を交わすと、執事に連れられて館の奥に進んだ。赤い絨毯が敷かれた階段を上り、華美な装飾が施された扉の部屋に到着する。


扉が開かれると、再び赤い絨毯が敷かれた広い部屋があった。壁際には豪華な調度品が置かれ、館の主が持つ富の一端を窺い知ることができる。


その館の主こそ、部屋の奥で豪華な椅子に座る人物その人だろう。


「どうぞ、中にお入りください」


執事に促されて、ハルとミオは室内に入った。


「よぉくぞ来たぁ、冒険者たちよぉ。朕の名はぁ、エリュトーンであるぅ」


ぶくぶくと不健康に肥えた丸顔。そこに貼り付いた裂けんばかりの大口が開くと、滑稽なほど調子の外れた声が二人の耳に届いた。


顔だけでなく、体もひどく膨らんでいる。でっぷりとした腹を隠すシルクのシャツのボタンは今にも弾け飛びそうだ。その上にベストとジャケットを羽織り、下半身にはズボンを着用している。しかし、やはりどれもパンパンで、美しい刺繍の施された衣服それぞれが悲鳴を上げている。


巨体を支えるために椅子が一つでは足りないらしく、二つ並べてべっとりと腰掛けている。


どうやらこのエリュトーンなる人物は、少なくとも貴族以上の身分はありそうであり、場合によっては王族なのかも知れない。


メタマイスでは、そういった高貴な身分のNPCとのイベントが発生した場合、適切なロールプレイをしなければイベントが消えてしまうことがある。


ハルもその事実は知っているのだが、どのような対応をすれば良いかまでは知らなかった。冒険者らしくないという理由で、そういうNPCとの関わりを避けてきたのだった。


「おやぁ? なぁんか頭が高いなぁ。朕の気のせいかなぁ?」


片眉を吊り上げ、不機嫌さを隠そうともせずエリュトーンが問いかけてくる。


「ハルさん、私の真似をしてください」


ミオが小声でハルに耳打ちすると、片膝をついて首を垂れた。その姿は堂に入ったもので、美しさすらも感じるものだった。


次の階層へ進むためにも、今回ばかりはロールプレイが必要だろう。彼女に言われた通り、ハルはその姿を模倣した。


「ぶぇっ、ぶぇっ、ぶぇっ! それでよぉい。……でぇ、さっさと朕への献上品を出すのだぁ」


……献上品? これも高貴な身分のNPCと相対するときには必要なのだろうか。


疑問に思いハルが横を見ると、ミオが首を横に振っている。どうやらそういうわけではないらしい。


残念ながら、この階層の情報がこれっぽっちもないハルには分かりそうもない。なので、ストレートに聞いてみることにした。


「献上品とはなんだ?」


エリュトーンは鼻からクンクン匂いを嗅ぐ仕草をすると、肉で埋まりそうなほど細い目が吊り上がった。


「とぉぼけるなぁ! やっぱり持っているじゃないかぁ。アンブロシアを早く出ぁすのだぁ!」


アイからもらったあの肉のことか。どうやらここで使用するためのアイテムだったらしい。横目でミオを見ると、縦に首を振っている。


インベントリから黄金に輝く肉の塊、アンブロシアを取り出す。


「極上の酒の匂いもするなぁ。それも出せぇ」


ハルが持っている酒といえば、第三階層で入手した神酒ネクタルしかない。


「これのことか?」

「ぶぇっ、ぶぇっ、ぶぇええ! よぉくぞ持ってきたぁ! 朕は腹が減っておぉる。今すぐここに持ってこぉい!」


ひどく興奮した様子のエリュトーンが執事に指示を出す。


執事はハルからアンブロシアとネクタルを受け取ると、恭しくエリュトーンに差し出す。


エリュトーンは細い目を力一杯に開いて献上品を凝視していた。口からだらだらと涎を垂れ流している。


そして右手でその肉の塊をむんずと掴むと、一気に口の中に放り込んだ。


「えっ!?」

「5キロはある生肉をそのまま……?」


二人は目を疑い、呆気に取られてその様子を見ていた。明らかに普通ではない。


グチャ、グチャ、グチャ!


今度は左手で神酒ネクタルの瓶を持ち上げ、ゴクゴクと一気に飲み干した。


すると、突然エリュトーンの体が一回り巨大化し、肌はテカテカになり色艶が良くなっている。


「ふぁああぁぁあああ! うまひぃぃ!」


天を見上げ、締まりのない恍惚とした顔で叫んだ。まるで、体全体で至福を表しているようだ。


「いつも冒険者はアンブロシアしか献上せんがぁ、お前たちはネクタルまで持ってきたぁ。褒めてつかわすぅ!」


頬をうっすら赤らめ、興奮した調子で言う。


「なら、次の階層に行きたいのだが──」

「足りなぁい」

「……え?」

「足りないと言ったのだぁ。朕はデーモンシープが食いたいぃ。たくさんたくさん食いたいぃ! 次の階層に行きたいならぁ、二時間以内に持ってこぉい!」


視界に緊急クエストのポップアップが表示される。二時間以内に十体分のデーモンシープの肉を持ってくる必要があるらしい。


とんでもない量の食材だが、先ほどの食いっぷりを見れば簡単に平らげそうに思える。


そんなことよりも、デーモンシープがスポーンする地点は全てギルドメンバーによって占拠されている状態だ。


つまり、このクエストが発生することを知っていて、フェリクスはこんな妨害行為をしてきたのだ。


「くそ、どうする……?」


ハルがぼそっと口にする。このクエストの達成条件を満たす手段が、頭に浮かばないのだ。


「とにかく、密林に戻って探してみるしかないと思います。頑張りましょう……!」


ミオの表情はかなりやつれている。それでもまだ希望を失っていないようだ。


「ああ、それしかないな」


ハルはミオに同意すると、館を出て密林に向かった。


これまで通った場所を再び訪れても意味がない。そう考えて、マッピングがされていない未調査の場所を狙うことにした。


しばらく調査を進めたが、案の定あらゆる場所にギルドメンバーがたむろしており、どうやらデーモンシープのスポーン地点を占拠しているらしかった。


仕方なく偶然現れる可能性に賭けて、二人は迷路のようなダンジョン内をぐるぐると回り続けた。


そして、動けば動くほど満腹度は減少していき、ついに0%になった。


胃の収縮は極限まで進み、常にぎゅうと握られているように痛い。おまけに、強い吐き気がおさまらない。


疲れるほど体を動かしているわけではないのだが、疲労感が強く、息が切れて歩くのもままならない。また気を抜くと杖を落とすのではないかと思うほど、体に力が入らない。


継続ダメージも発生し始め、体力ゲージが少しずつ減少している。


ひもじさから、どこかに食べ物がないか常に視線を彷徨わせていた。そんなものが見つからないことは分かっているのだが。


体験したことのない飢餓地獄だった。


だがハルとミオは歯を食いしばり、クエスト終了の時間まで迷宮内を歩き回った。


しかし、二人の姿を見て大笑いする軍服の男たちと蝿や蛇のモンスター以外に、何の生物にも遭遇することはなかった。


クエストはタイムリミットを迎えた。


「クエスト失敗、ですね……。私たち、どうなるんでしょう?」

「……分からない。ともかく、一旦戻ろう」


ハルとミオは視線を合わせて頷くと、館に入りエリュトーンの元に戻った。

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