第二話 旅立ち
現実世界に戻ったハルこと晴清は、ベッドから身を起こして
折り畳み型スマートフォンを広げ、配車アプリでタクシーを呼び出すと、並行して外出の準備を済ませる。
アプリの通知を受けて家を出ると、四人乗りの軽自動車が止まっていた。ドアが自動で開く。
「いらっしゃいませ〜!」
車に乗り込み声のする方へ目を向けると、ダッシュボードの上で仁王立ちする小さな女。
「行き先は中石神井セントラル病院ですね! では、出発で〜す!」
彼女の実態は3Dホログラムだが、話し方も動きも人間らしく、不自然さがまるでない。
ハンドルもアクセルもブレーキも存在しない車が、音もなく滑らかに発車した。
「車内の温度はいかがでしょうか〜? 暑いですかぁ? 寒いですかぁ?」
身振り手振りでそんなことを質問してくるホログラム。無人タクシーのため、搭乗者へのサービスは彼女の仕事なのだ。
「ありがとう、大丈夫だ。それよりも、少し急いでもらえるかな?」
「お任せくださいっ! でも、あんまりスピードを出すと危ないので、少しだけですよ?」
なぜか潤んだ瞳で同意を求めてくる彼女に、少し呆れた気分になりつつも晴清は頷いた。
道を走るほぼ全ての車が自動運転ということもあり、その秩序たるや凄まじいものがある。それぞれの車がお互いの状況を常に把握し合っており、車間距離も速度も一定なのだ。
その中で、この車だけが速度を上げて、次々と周囲を抜き去っていく。
「いっけいけ〜!」
このホログラムと人工知能の開発者はどんな人物なのか。急いで欲しいとは言ったが、法定速度をだいぶ超えているに違いない。病院に到着する前に警察に捕まらないか冷や汗が出る。おそらく、ギリギリ捕まらない速度なのであろうが。
「ふぅ到着っと! ありがとうございました〜!」
「助かったよ。こちらこそありがとう」
額の汗を拭いた素振りの後、ぺこりと頭を下げる彼女に、晴清は礼を言い車を降りた。すると、料金の清算を知らせる振動がスマートフォンに届いた。
急いで病院に駆け込むと、スタッフステーションで病室の場所を聞き、扉を開いた。
個室らしい部屋のベッドで、母が目を瞑っている。ベッドの側には医師と思われる男と蒼が立っていた。
蒼は随分泣いたのだろう。長いまつ毛に愛らしい二重の目を少し腫らせているようだ。腰まで伸びたツインテールの黒髪だけは、以前と変わらないツヤを帯びている。
「遅くなった。母さんの容体は?」
「お兄ちゃん……。ママは今ぐっすり眠ってるよ」
──良かった。無事らしい。ただどうも顔色が悪いように見える。
「先生、母さんはなぜ倒れたんです?」
「心臓に過度な負担がかかったことが直接の原因です。ただ、それを引き起こした根本的な原因は、重度の過労と睡眠不足でしょう。最低でも二週間の入院が必要で、その後一ヶ月は安静にしてもらうことになります」
「そうですか……」
医師が去った病室で、晴清は唇を触りながら考え込む。
──母さんが過労と睡眠不足? どうしてそんなことに?
母は女手一つで自分たち兄妹を育て上げた。大変な苦労をしてきたであろう母を、自分も蒼も心から尊敬している。
だが現在、自分は独り立ちしてそれほど負担をかけていないはずだし、蒼も高校生で手がかかるような年齢じゃない。
昔ならまだしも、なぜ今……。
同じように何かを考えていたらしい蒼が、ハッとした表情で口を開いた。
「そういえばこの前、ママ宛に手紙が来たわ」
「何の手紙だ?」
「借金返済の督促状」
「ん、家に借金なんてあったか?」
眉を顰めて蒼を見る。すると彼女の表情は険しくなり、苛立った様子で答えた。
「あいつの借金よ」
晴清と蒼の間であいつといえば、子供の頃に家族を捨てた父親しかいない。
まだ生きていたことにも驚きだが、今や何の繋がりもないはずの父親の借金の請求が、なぜ母の元に来るのか。
「あいつが死んだから、ママのところに来たみたい。まだ離婚してなかったらしいわ」
「まさか、信じられないな……」
初めて聞く話ばかりで頭の整理が追いつかない。が、父親の死に対しては何の感慨も湧かない自分は薄情なのだろうか。
だが、今そんなことはどうでも良い。
母は責任感の強い人間だ。父親が作った借金を自分が返そうと思い、一生懸命働いた。その結果、過労と睡眠不足がたたり、倒れたということか。
「でも、借金っていくらだ。そんなに無理して働くほどなのか?」
「……二千万円よ」
言葉を失うと同時に、ハルの心が波立つ。
とんでもない大金だ。死んでもなお、母に迷惑をかけるというのか。
「ママは私に心配しないでって言ったの。だから、それを鵜呑みにして今の今まで忘れてた。こうなったのは……私のせいだ」
蒼の目から涙が零れる。
そして、さらに思いが込み上げてきたらしい。
「蒼は勘違いしてるぞ。あの強い母さんが心配するなと言ったんだ。俺たちはその言葉を信じていればいい」
「……うん」
「だがこうなった以上、俺たちで何とかするしかないな」
やっと泣き止んだ蒼はハンカチで涙を拭うと、腕を組んで大きな目で晴清を睨む。
「どうするって言うのよ?」
「メタマイスの大迷宮に挑む」
「…………はぁ!?」
素っ頓狂な声を上げる蒼。
「あ、あ、頭のネジがどこかに飛んで行っちゃったんだわ……! いい、お兄ちゃん、よく聞いて。確かに大迷宮にはすごい財宝が眠っているから、手に入れられれば二千万円、いやそれ以上稼ぐのも夢じゃない。でも、それは手に入れられればの話よ」
実の兄に酷い言い草だ。とはいえ妹は昔からこうだから、もはや何とも思わなくなっているのだが。
兄の諦観など気にする様子もなく、蒼は話を続ける。
「大迷宮は普通の迷宮より何倍も危険なの。色々な噂はあるけど共通しているのは、死んじゃった方が楽なほど苦しい目に遭うらしいってことよ。実際、そうして何人もの冒険者が心を病んで入院しているんだもの」
妹の情報は正しい。大迷宮は通常の迷宮と難易度が全く異なり、命の危機に晒される場面が多いと言う。
ゲーム内での死とは、体力ゲージが0になって倒れ、その場から姿が消えること。そして、次の瞬間リスポーン地点で復活することを指す。
だが実際の人間にとっては、メタマイスによる感覚器官の再現度の高さによって、本当の死と似た感覚を味わうことになる。
果たしてそれに、人間は何度耐えられるのだろうか。また、死んだ方が楽なほどの体験とはどういうものなのか。一度でも体験すればトラウマになる可能性も否定できない。
妹の言う通り、実際に心を病んで入院した人が現れ、メタマイスが世間から批判を浴びたこともある。
にもかかわらず、なぜ未だにゲームの仕様が変わらないのか。
それは結局、今でも億を超える冒険者がメタマイスでの体験を心底魅力的に感じ、熱く支持し続けているからだ。
そして冒険者がゲームから発掘してくる魅力的なNFTは、資産家にとって有力な投資対象となり続けているのだ。
「危険なことは分かってる。それでも俺はこのゲームが好きだからな。どんなに苦しくても耐えられるさ」
「呆れた。どこからそんな自信が生まれるのかしら」
蒼はまるで理解できないといった風に頭を振る。
「じゃあ生活費はどうするのよ? ベーシックインカムだけじゃ足りないって言ってたわよね?」
「ああ、一人暮らしには厳しい。でも多少の蓄えはある。それで何とかするよ」
「……何を言っても考えを変える気はなさそうね。まっ、それがお兄ちゃんか。いいわ、ならこの私がお兄ちゃんをサポートしてあげる!」
セーラー服の下に隠れたスレンダーな胸を反らせると、蒼は自信に満ち溢れた様子で宣言する。
いつの間にか、以前のハリのある声に戻っている。この姿が本当の蒼だ。
「そうか、助かるよ」
「でしょう? でもゲームのサポートは少し待っていて。その前にいくつかやっておくべきことがあるわ。まずはそもそも借金の支払い義務はあるのか、減額できないのか、法律AIでチェックする必要があるわね。それに、クラウドファウンディングで『可哀想な兄妹の支援プロジェクト』も立ち上げておかなきゃ」
「そ、そうか。流石だな」
「当たり前よ。やれることは何でもやっておくわ。だから、そっちはどんどん攻略を進めてよね。あ、でもお兄ちゃん、ちゃんとパーティー組めるの?」
大迷宮の攻略は、その難易度からパーティーを組むのが必須とされている。
だが晴清はこれまでずっとソロで活動してきており、パーティーを組んだことがなかった。彼女はその辺りを危惧しているようだ。
「任せておけ。俺のコミュ力ならすぐに仲間は見つかる」
「……なんか心配ね。じゃあ、早速私は動き始めるわ。またね!」
蒼は母の元に近づくと、皺が増えた手をそっと握り締めた。そして、確固たる意志を持った足取りで病室を出て行った。
「俺も行くか。心配しないでゆっくり休んでいてくれよな、母さん」
そう呟くと、晴清もまた病室を飛び出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます