感情と模範解答

 夜は更に重く煉る。檻を壊してでも逃げないといけない。逃亡が危険だとしても、何もしない訳にはいかなかった。このままだと、俺もこの男と同じような歳になるかもしれない。その前に殺されるかもしれない。隣で眠る男を起こさないようにベッドから脚を下した。パサと何かを踏んだ。床に散らかった原稿用紙を拾いあげる。初めて見た時は三行だったそれも、百枚近くになったらしい。黒塗りされたり、赤で潰されて原型を留めていないものもある。こんな紙切れのために、あんなに必死になって薬にまで手を出すなんてやっぱりイカレている。そう頭では思うのに、小説家と名乗る男の苦悩が見えて俺まで苦しくなった。拾い集めていると、一枚だけ綺麗に書き留められたものがあった。

「『なぜ、鳥は幸福だったのか。それは一矢報いたためではなく』……これ」

 これは、俺の言葉だ。肩から胸に冷たい感覚が這った。

「『終わりに安堵したから』」

 男の腕が垂れていた。そのまま、背に男がぴたりとくっついた。緩い心臓の音が伝わってくる。手汗で原稿用紙に皺が付いた。そのまま男の右手が原稿を撫でた。

「ダメだよ。大人の物を勝手に見るのは、悪い子だ」

「……何であんたが持ってるんだよ」

「学生時代の知り合いが送ってきたんだよね、ゴミみたいな定型文を腐る程。昔から嫌がらせが上手かったけど、僕が作家やっているって知ってムカついたのかな。あいつ、プライド高いから大嫌いだったなぁ」

 俺たちが書いたのは決してファンレターじゃない。成績を欲しいがために課題をこなしただけだ。その先に誰がいるかなんて考えたことはなかった。

「じゃあ、あなたが時鳥ときとり先生……?」

 てっきり小さな連載を持っているような売れていない『自称小説家』だと思っていたが、まさかテレビでもてはやされるような『現代の文豪』だとは思いもしなかった。背を縮こめて、唸るように苦しんでいる姿からあの物語が生まれるとは思えなかった。呆然としていると、肩に男の額が乗せられた。

「右向け右の餓鬼なんて裕福な大人の願望で、餓鬼どものごっこ遊びなのにね。巻き込まれる方が迷惑だ」

 教科書に載るような作家が、こんなに狂っているなんて思うと、教育も教材もみんなみんな汚くて、間違っているように感じた。

「凪くん。君だけだったよ。ちゃんと理解してくれたのは」

 教室にタイマーが響く三秒前。模範解答ではないと押し殺した考えを、俺は感想文に書き殴った。「裏切られた」とか「仕返しをしてやった」とか、結果ばかりで言葉の表面しか見ないクラスメイトが愚かしかった。

「君はどうして分かったの? 僕が見つけられなかったのにどうして見つけられた?」

「見つけられたって何を? 俺は感じたままを書いただけだよ」

「逃げるなよ」

「……逃げてなんかない。その、喉が渇いて起きただけ」

「違う、違うよ。僕は、感情から逃げるなって言っているんだ。そんな模範解答も嘘も繕った言葉も嫌い。大嫌いだ。つまらない」

 男は原稿から手を放すと、するすると俺を抱きしめた。

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