適切な言葉

 ナイフに触ったけど、取り出すことはしなかった。

 ひゅう……ひゅう……

 馬乗りになっていたのは、おじさんだった。浅い呼吸を繰り返して、今にも過呼吸になりそうだ。開いた瞳孔が気味悪い。「ああ」だの「うう」だの、言葉にならない嗚咽交じりの音をさせていた。そのまま強く抱きしめられる。腕の軋む音がした。

「やめろ……痛い」

「痛いよね。そうだよね。痛いんだよ。でも分からない。分からないんだ。この痛いって感覚が何かも分からないし、寒くて寒くて仕方ないのに、幸せな最期がこれなら問題ない気がしてならない。もう見つからないよ。この感覚に適切な言葉を持たないんだ。もう逃がしてくれ、責めないで」

 俺の声が聞こえているようなのに、焦点は合わない。何とか逃げようと首をひねると、視線の先には錠剤が撒かれていた。

「ねえ、凪くん。君は持っているよね」

「な、にを……」

「羨ましいなぁ」

 男の手が俺の頭を撫でた。病的に冷たい手はそのまま俺の耳たぶを張って、唇に触れる。俺の声なんて聴きたくないとでもいうように、そのまま手で口を覆われた。

「言葉」

 模糊で消えてしまいそうな声だった。ぽろぽろと男は泣きだした。生ぬるい涙が首に零れ落ちる。押さえられていた腕を抜いて、男の背に回した。一定のリズムで背をさすってやると、声を上げて泣いた。嗚咽交じりの汚い声だ。

「ごめんね。ごめんね。凪くん」

「……情緒不安定かよ」

「おかしいな。こんなことまでしたのに、書けないんだ」

 人間ってこんなに冷たくなるものなのか。俺はまだ高校生で、周りで死んだ奴はいないけど、人が死んだらこんな風になるのか。目の前の男は生きているのに、死んでいるように思った。俺もいつかこんな風になるのか。「いつか」は遠くない気がした。男は目を擦る。離れていく男の腕を掴んだ。

「す、すぐに退くから……」

「いいよ。薬、大丈夫?」

「慣れているからね。まだふらふらするけど」

「……そっか。あのさ、隣に寝たら?」

 男の涙なんて全く興味ないけど、でも俺もこの部屋で一人だったらもっと色々と壊れていたと思う。男は、どれほど長い間をこの部屋で過ごしたのだろう。俺以外にも連れて来られた奴はいたのか。俺たちはどうして誘拐されたのか。そして、顔も知らない犯人は男に何を植え付けていったのだろう。訊くことはしない。訊いた先に欲しい答えがあるとは思えない。だって、男はとっくに壊れている。

「ごめんね。酷いことして」

「別にいいけど」

 男は目元に皺を寄せて、糸が切れたように寝た。初めて、この男が寝ているのを見た。外に出られないだけの普通の生活。そう思っていたけれど、目の前で自殺未遂が起きるような現状が普通な訳ない。

「……逃げないと」

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