摩擦のない生き方
スモーク越しの空は薄紫色をしている。中学の頃、朝練があった時はこんな空の色だから六時くらいか。こういう感覚もきっとすぐに狂っていくんだろうと寝起きの頭で考えた。
カリカリと音がして身体を起こすと、男が机に向かっていた。寝る前に見た姿と全く変わらなかった。違うのは、投げ捨てられた紙が床一面に散乱していることだろう。
「違う、違うんだ。……知らない。分からない」
クマを拵えて、ぶつぶつとうるさい。俺が起きたのにも気づかないらしく、のろのろとベッドから降りてキッチンに向かった。
いつ犯人が来て、気まぐれで殺されるかも知れないのに、面倒なことに腹はちゃんと空く。冷蔵庫から、ベーコンと卵を四つ取り出して焼いた。パンも焼きたかったけど、トースターはないみたいだ。フライパンに、包丁に、フォークに、ガラスのコップ。もし犯人が来ても、よほど屈強な男じゃない限り、抵抗できる気がする。小さなナイフをポケットに入れた。不自然な膨らみに安堵した。両手に皿を持って、一つをローテーブルに置く。
「朝食、作ったけどいらない?」
丸まった背に声を掛けたが、男は頭を掻くばかりで答えない。大人はよく聞こえないふりをするけれど、そういう狡さとは違って、本当に切羽詰まっている気がした。俺も問題集解いている時に話しかけてくるクラスメイトはウザいから、放っておくことにした。
男は、昼まで俺の作った朝食に気づかなかった。
「気づかなくてごめんね。凪くんは料理も上手なんだ。凄いな。何でも出来るんだね」
「……料理も? 俺のこと、名前以外にも色々知ってるの?」
「ああ。うん。そうだね」
「じゃあ、犯人は俺のストーカーか」
「確かに色々見られていただろうね。何か心当たりでもある?」
「ない。でも、俺の高校、進学校だったから。制服着ているだけでも目立つし、自慢じゃないけど成績も良い方だったから視線を感じることは多かったんだよな」
あそこでの価値は、成績で判断される。一流大学の進学率の分子になることだけを求められている。そんな隔離社会で向けられる視線には、悪意も羨望も混ざっていた。だから、その中の一つに犯罪者の視線があっても分からない。
「学校、楽しくない? 嫌なことでもあるの?」
「特別打ち込んでいることはないけど、不満もない」
まるで、年に二回ある面談みたいだ。毎年、義務的に同じことを聞かれるから一言一句同じ言葉を返すようになっていた。何を言っても、大人は解決しようとしない。触れた事実だけを主張するだけだ。
「楽しくはないんだね」
「……そんなこと言ってない」
「楽しい?」
俺が口ごもると、男は両手を合わせて「ごちそうさま」と言った。この人は、話しかけてくるくせに最後まで踏み込もうとしない。質問されて、自問自答を繰り返すことになるだけだ。「どうして」「なんで」を重ねて、俺のこと気遣うふりする大人よりよっぽどいいとは思う。
男は、綺麗に朝食を平らげていた。少しだけ胸がすっきりして、皿を濯ぐ男の隣に立った。
「やっぱり固形物は胃にくるね。おじさん、吐きそう」
「は? 脂っぽかったとか?」
「普段は、栄養ゼリーとかで済ませちゃうんだよ。腹が膨れると、頭が上手く回らなくなるからあんまり食べたくなくてね」
「何、それ。バカみたい」
「ほら、安吾とか太宰とかは薬漬けだったって話は聞いたことある? あれって執筆のためでもあったんだよ」
「二人とも身体ボロボロじゃん。そんなになってまで書きたいって病気じゃない?」
「そこまでして欲しいものがあったんだろうね。『文豪』なんて崇められる人は」
「よく分からない。そういうの」
進路調査の紙だって、面倒だから教師に文句を言われない大学名書いておくだけで、特に行きたいとは思わなかった。ましてや、自分の身体を壊してまで欲しいものなんかない。特別長生きしたいとも思わないけれど、無理をしても意味ないことくらい高校生だって知っている。摩擦ばかりで効率の悪い生き方はしたくない。
「君の幸せは不幸に見えるね」
男は笑うと、そのまま机に向かった。
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