オルテンシア
夢見ルカ
オルテンシア
汗がししどに流れ落ちる季節。憎たらしいほどに照らす太陽を睨みつけても、何も変わらないが、そうせずにはいられなかった。
季節が過ぎ去る前に今季の暑さにエアコンが根をあげたので、涼を求めて出かけてみたはいいものの、どこも人だらけで入る気にもならない。
「あぁ、くそ、涼しければなんでもいいのに」
ひとりごちてみても、誰も足を止めることなく人の波は流れていく。当たり前の話だ。無駄足だったなと、重い腰を上げる。
このまま外にいると確実に熱中症は免れないだろう。
それならば家に帰り、扇風機でも掃除した方がましだと思いたち見慣れてしまった、面白味のない来た道を辿る。茹るような熱気に負けて、白む意識の中で雨音を聞いた気がした。
暗転———。
雨雲など見えない晴天晴れだったはずなのに通り雨でもきたのだろうかと、段々と近づく雨音に意識が浮上し、いつの間にか閉じていた瞼を開く。
あんなに纏わりついていた熱気はなりを潜めている。外でもなければ、見知った場所でもない。部屋の中は意図的に暗くしているのか、全体の把握ができない。灯されたランプの光がゆらゆらとゆらめき、淡く周りを照らしていた。
わかることと言えば、古めかしい扉が一つあるだけだ。手がかりもない状況のなかでは開けるほかないだろう。
触れるとひんやりとしたドアノブをゆっくりと回し押し開ける。
「お待ちしておりました」
ドアの向こうからは、来ることが分かっていたかのような台詞が聞こえてきた。その淡々とした抑揚のない声はどこか冷たい印象を持つ。
声の主はアンティーク調の調度品に囲まれ佇む女性のものだった。
真っ暗な室内にその女性は艶やかに咲いている。梅雨を彩る紫陽花のように。
口元は微笑みを携えているのに眉ひとつ動かさないさまは、人形のようにも、精霊のようにも、とにもかくにも人ならざる者のようだった。
長いまつ毛が瞬いて花を宿す瞳が見え隠れしている。
「お客様の願いをお伺いいたします」
女性の問いに返す答えは見つからず、口を開閉しては、後退ることしかできないでいた。しかし、すぐに来たドアにぶつかり、自分で出口を閉じてしまう。
ガチャリと鍵のかかる音が嫌に響く。
「さぁ、お客様。この場に来たということは願いがあるということ。お聞かせ願えますか」
女性は一歩たりとも動いていない。むしろ見た時のまま、赤いリボンが目立つ大きな傘を手にこちらを見つめるだけ。だというのに、なぜこんなにもここから逃げ出したくなるのかわからない。
やっとの思いで、言葉を探し舌にのせる。喉がうまく震えずしどろもどろになりながら。
「か、かえっ、りま、っす」
女性は何も答えない。ただただ、そこに根を張り咲いているだけ。
鮮やかに艶やかに、雨に打たれて咲いている。
あぁ、そうだ、雨が降っている。確かに降っているのだが、雨粒は自分の肌を、服を濡らすことなく突き抜け地面にたたきつけられている。はじけた水滴すら、足をくすぐりもしない。
雨音はずっと聞こえていたのに。そして、間違いなく雨は降っているのに、だ。何せ、目の前の花は雨に打たれているのだから。
「帰ります!!」
次は音量調整をミスしたらしい。想定していたよりも大きな声が出た。
女性に背を向けて、ドアノブに手をかける。鍵がかかっているだろうと思っていたドアはいとも簡単に開いた。驚くものの、一刻も早くこのよくわからない部屋から、女性から逃げ出したかった。
ドアを開いた勢いのままに飛び出す。
「またのお越しをお待ちしております」
背後から聞こえた声はどこか楽し気に聞こえた。冷汗が背中を伝う。あんなに煩わしかった夏が恋しくなるとは思いもよらなかったと、振り返ることなく訳も分からず走り続けた。
息があがり、足がもつれるほど走った頃に、見慣れた道に出ていた。
空を見上げるとどこまでも青いキャンバスに大きな入道雲が描き足されていた。どこにも雨雲などありはしない。
「ゆ、夢でも見てたのか…」
頭をかき回すほどの蝉の声が独り言を消していった。
カラン———。
ドアベルが鳴る。それもすぐに雨音に消され、客人など知らぬといった顔するドアが一つ残されていた。
「また、帰ってしまったのかい?オルテンシア」
「マスター。久しぶりの来店でしたのに、申し訳ありません」
オルテンシアと呼ばれた女性は背後から現れた店主に、申し訳なさそうな態度をとる。その表情は一切の変化が見られない。が、しかしその実、よくよく観察さえすれば、彼女は表情豊かな方なのだ。
「ふふ、構わないよ。誰だって、君の美しさに恐れおののいてしまうものなのだろう」
オルテンシアに降りそそぎ、頬を滑る雫をすくいあげて店主は笑う。降りやまぬ雨が二人を濡らしていく。
客人が逃げるのは彼女の美しさだけでないこと知っていてもなお、雨に呼ばれ花開く紫陽花を玄関に飾ることをやめることはない。
つまるところ、オルテンシアに接客が向いていないとは絶対に言わないのだ。正直、このままでもいいと思っている。
何度拭っても濡れる頬を擽り、いつもの台詞を口にする。これからもきっとそうなのだろう台詞を。
「仕方がないね、今日のお食事は君へのまかないにしようか」
「本日は何をお作りに?」
「今日はオムライスを。可愛らしくしてみたんだ。きっとオルテンシアも気に入るよ」
「それは楽しみですね」
二人肩を並べて、店奥へと歩いていく。会話は次第に雨音にのまれ掻き消えた。
オルテンシア 夢見ルカ @Calendula_28
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