第33話 全ては氷へと還る

「……懐かしい。数百年の年月が経っても、この景色だけは何も変わらない」


 鳥海風花の姿で永士に抱かれる吹雪が意識を取り戻した。眼前に飛び込んできたのは、相巣村の北部に位置する湖、蝋雪湖であった。小さな湖だが、冬でも氷は張らずに水面が揺れている。


「ここが、二人の約束の場所だったのでしょう?」

「ええ。二人でここに入水するはずだった」


 その口振りに寒凍霊の不遜さは感じられない。椿の簪に触れたことで、生前の吹雪としての人格を取り戻していた。しかし、寒凍霊としての存在が失われたわけではないので、村ではまだ氷鬼の襲撃が続いている。


「どうしてこの場所のことが分かったの?」

「亡くなった母の言葉だったんですよ。良い子にしていないと、寒凍霊に水の中に連れていかれるって。相巣村の水場と聞いて真っ先に思い浮かんだのは蝋雪湖だ。母は無意識のうちに、あなたの記憶の中の湖を感じていたのかもしれない」

「そう。お母様が……」


 五十年前に永士の祖母の氷美子を宿主としたに起因して、氷美子と冬美は若くして亡くなり、そして今、三代目である永士をも螺旋に飲み込もうとしている。寒凍霊として災厄に身を落としていた時期の記憶を、本来は心優しい性格の持ち主である吹雪は激しく後悔していた。


「最後まで私に付き合う必要なんてないのよ。消滅する瞬間まで、幼馴染と一緒にいれば良かったのに」


 吹雪は永士の腕から降りようとしたが、永士は決してその体を話そうとはしなかった。


「数百年孤独を感じていたのでしょう? 最後ぐらい誰かと一緒でも罰は当たりませんよ。それに寒凍霊の因子を体に宿す僕はあなたと表裏一体の存在だ。同時に終わるべきでしょう」

「……そうね。あなたと一緒なら寂しくないわ」


 吹雪は永士の首に腕を回し、しっかりと彼にしがみついた。


「行きましょうか」


 吹雪を抱きかかえ、永士は静かに一歩ずつ、蝋雪湖へと入水していく。


「お礼というわけじゃないけど、最後に良いことを教えてあげる」


 そう言って、吹雪は永士にそっと耳打ちした。それを聞いて永士も微笑みを浮かべる。


「それは良かった。そのことだけは心残りだったんです」


 二人の姿は、真冬の夜の湖へと消えていった。


 ※※※


 永士との別れを悲しむ暇もなく、麟太郎は再び元自衛官の丹羽らと連携し、万年雪旅館の防衛に身を投じていた。権藤氷鬼や番井氷鬼が復活を果たす中、麟太郎は剣先スコップで必死に応戦したが、ライフルを扱える黒部が戦死したことで戦線を維持しきれず、麟太郎と丹羽も館内への退避を余儀なくされていた。


「流石に万事休すか?」

「俺の親友がこの悲劇を終わらせると約束してくれた。あと少しの辛抱です」


 非戦闘員を一番奥の宴会場へと退避させると、丹羽と麟太郎は入口に即興のバリケードを張ったエントランスで、スコップを構えて襲撃に備えていた。距離を置いて六花も不安気にその様子を見守っている


 バリケードが破られた瞬間に氷鬼にカウンターで殴り掛かり、襲撃をエントランスで食い止める。ここさえしのげば、全てに決着がつくはずだ。


「来るぞ!」


 入口を激しい衝撃が襲い、バリケードは呆気なく吹き飛んだ。外と館内の境界が亡くなり、大量の風雪が吹き込んでくる。麟太郎と丹羽は直ぐさま殴り掛かれるよう、スコップを握る手に力を込めた。


「待って。様子が変よ」


 敷居を跨いだ番井氷鬼のシルエットが痙攣のように小刻みに震えていた。後続の権藤氷鬼、瀧氷鬼にも同様の異変が生じている。


「氷鬼が勝手に砕けていくぞ」


 丹羽たちの目の前で氷鬼の体は自壊し、粉々に砕け散っていく。これまでと違い細かい氷の粒となって霧散するのではなく、氷の破片もその場に残っている。二度と再生しない、ただの氷へと還ったのだ。


「麟太郎くん。これって……」

「ああ。永士がやってくれたんだ」


 涙を浮かべる六花の体を麟太郎は抱き寄せた。永士が村を救ってくれた。災厄に終止符を打ってくれたに違いない。


「お前は本当に凄いやつだよ。永士」


 今頃永士はもう、どこにもいないのだろう。

 天井を見上げる麟太郎の頬を一筋の涙が伝った。


 ※※※


 正面玄関を除雪車に突破された公民会では、全ての避難者をイベントホールに集め、最後の籠城戦が繰り広げられていた。弾薬は使い果たし、近接武器の損傷も激しい。最も多くの氷鬼が投入された激戦地である公民会は絶望的な状況にあったが、消防団と猟友会の有志が必死に最後の扉を死守し、辛うじて持ち堪えている。その努力がついに実を結んだ。


「韮沢。氷鬼が自壊していくぞ」


 最初に気付いたのは、得物を狩猟用ライフルからスコップへと持ち換えた猟友会会長の四方だった。万年雪旅館での異変と同時刻。公民館に押し寄せた多くの氷鬼も自壊を始め、堰を切るように次々と砕け散っていく。


「何が起きているんだ?」

「分からん。だが、どうやらこのろくでもない夜を越すことが出来そうだ」

「……この場に、荒砥さんにもいてほしかった」

「同感だ」


 荒砥を始め、この勝利は多くの犠牲の元に成り立っている。生き延びれたからといって素直に喜ぶことは出来なかった。荒砥が氷鬼化する前に事態が収束し、彼の姿をした氷鬼と争うことがなかったのがせめてもの救いだ。


「ここから先も長い戦いになる。課題は山積だ」


 生き残ってそれで全てが終わりではない。災害対策本部長として今後は、果てしない事後処理に追われていくことになる。土地を離れる者も多いだろうし、相巣村の復興にどれだけの時間が必要になるか分からない。


「お前の立場を考えれば、気張るなというのも無茶な話だろうが、こうして命を拾ったんだ。全員で乗り越えていこうや」

「ありがとうございます。四方さん」


 今は命があったことを喜び、四方は韮沢を労い肩に手を触れた。


「……終わったんですね」

「ああ、氷鬼の襲撃は終わった。我々は生き延びたんだよ」


 右手に大怪我を負って戦線を離脱した警察官の忍足は、角の肩を借りてゆっくりと立ち上がった。


「直ぐに伊予札先生に診てもらおう」

「私も手伝います」


 この中で一番重症なのは忍足だ。角の反対から防災安全課の湯谷寒露も肩を貸し、忍足を伊予札医院に連れて行くことになった。


「角さん。自分は警察官としての職務を全うできましたか」

「君は勇敢だった。おかげで多くの命が救われた。誇っていいさ」

「自分。警察官を目指して良かったです」


 痛みに顔を歪めながらも、忍足は笑顔を作った。


 ※※※


「永士さんは凄いな。本当にこの悲劇を終わらせるなんて」


 視線を落とす魁人の右腕はすでに氷の粒となって崩れ落ちていた。相対していた勢能氷鬼の体はすでに完全に崩壊している。

 終わりを迎えることに不思議と終わりはない。むしろ安堵していた。これでもう、深雪や克己は安全だ。


「ばいばい。父さん、深雪ちゃん――」


 伊予札魁人の氷の体は完全に崩壊した。

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