第32話 吹雪

「僕は君と争う気はないよ。吹雪ふぶき

「あなた、その名前を……」


 不遜な態度を続けてきた寒凍霊が初めて動揺し身動ぎした。麟太郎と六花にとっては、永士のペンネームである「吹雪涼」として聞き慣れた響きだ。状況を飲み込めていない二人は、どうして永士がこの状況でその名を口にしたのか疑問だった。


「君を一人にさせない。そのために僕はここに来た」


 永士は懐から、深雪から預かった椿の簪を取り出し、一歩ずつ寒凍霊へと近づいていく。


「その簪は……私の?」


 それまでの冷え切った印象が成りを潜め、寒凍霊は過ぎ去った過去に思いを馳せるように、穏やかな表情で簪を見つめている。一切反撃することなく、永士の接近を許してしまった。


「う君によく似合っているよ」


 寒凍霊の髪に椿の簪を差してあげた瞬間、その頬を涙が伝った。永士を見上げるその顔は、初恋に胸を焦がす少女のように赤らんでいる。


「そうか……私はずっと――」


 突然、寒凍霊は糸が切れた人形のように脱力し、その体を永士が支えた。


「永士。今のやり取りは一体?」

「寒凍霊は元々普通の人間の女性だったんだ。その名を吹雪という」

「吹雪。永士くんのペンネームと同じ」

「僕のもう一つの名。僕と彼女の関係はどこまでも、コインの面と裏らしい」


 ペンネームをどうやって決めたのか、永士自身も覚えていない。覚えていないということは、感覚で何となく決めたのだと思うが、今になって思えば体に宿る寒凍霊の因子が、生前の彼女の名を主張してきたのかもしれない。


「吹雪さんは、村に滞在していた男性と恋に落ちたが、身分違いの二人は明るい未来を望めず、心中を計画したそうだ。だけど、待ち合わせの場所に相手の男性は現れず、男性を待ち続けた吹雪さんは大雪の中で凍死してしまった。その時の無念や孤独感が、彼女を寒凍霊へと変えたんだ」


「……彼女は生者が憎かったのか?」


「最初のきっかけは寂しさだったんだと思う。彼女は一緒にいてくれる同族を欲していた。だから人間を氷鬼に変えようとするんだよ。だけど結局氷鬼は自我を持たぬ氷の人形だ。虚無感がさらに彼女の心のクレバスを広げていったのかもしれない。そうして数百年の歳月の中で彼女は己の存在を見失い、ひたすらに生者から生命の熱を奪う、災厄そのものに変貌を遂げてしまったのだと思う」


「数百年間の孤独か……」


 六花の表情は怒りと哀れみの間で揺らいでいる。寒凍霊がこれまで相巣村にもたらしてきた被害を思えば、彼女が憎くて仕方がない。だが一人の女性として彼女の絶望を想像した時、その怒りは僅かに鎮まった。数百年間の孤独に耐えられるはずがない。彼女が狂ってしまうのも無理はないと、そう思った。


「だけど彼女は、完全に自分を見失ったわけではなかった。生前の名前の記憶もそうだし、こうして万年雪旅館に出現したのも生前の記憶の名残だろう」

「うちの旅館と彼女に関係が?」


「彼女の記憶の一端を垣間見た。まだこの場所が万年雪旅館となるずっと前。彼女の愛した男性はここの温泉に湯治に訪れていた。彼女にとってこの場所は、想い人と出会った思い出の場所なんだよ」


「とても、人間らしい感情だね」


「ああ。彼女は災厄となったが、怪物ではなかった。彼女が完全な怪物となっていたなら、この椿の簪も意味を成さなかっただろう」


「その簪を差した瞬間、寒凍霊は意識を失ったが、一体何が起きたんだ?」


「僕が始めた簪に触れた瞬間、生前の吹雪さんの記憶が僕の中になだれ込んできた。それと同じことが彼女にも起きたのだと思う。自分自身の記憶となれば、その解像度は一層鮮明なはずだ。推測だが、己の存在を再認識たことで、彼女の意識が一時的にシャットダウンのような状態を起こしたのだろうね」


 寒凍霊の額を優しく撫でると、永士は彼女の華奢な体をお姫様抱っこの形で抱えた。


「寒凍霊としての彼女が存在し続けている以上、氷鬼の襲撃は止まらない。この災厄に終止符を打つため、僕は彼女を連れて行かないと」

「行くって。お前一体、これから何をするつもりだよ」

「来るな。麟太郎」

「うわっ!」


 永士は自分に駆け寄ろうとしてきた麟太郎を牽制し、彼を害さない程度に風雪を発生させ、自身と麟太郎との間の障壁とした。


「二人とはここでお別れだ」

「馬鹿野郎! そんなの許さねえぞ」

「そうだよ永士くん。永士くんは今だって永士くんのままじゃない。きっと永士くんが助かる方法だってどこかに」

「斜森永士という人間は、バス事故でもう死んでいるんだ。今の僕は斜森永士の自我を持った氷の人形。すでに僕は人間ではない」

「そんな……お別れなんて嫌だよ永士くん」


「泣かないで。りっちゃん。斜森永士の物語はここで終わるけど、僕の作ってきた物語はこれからも存在し続ける。小説家で良かったと常々思うよ。天涯孤独の身ではあったけど、僕は作家として、僕がこの世界に存在していた証明を残すことが出来たから」


「永士くん……」

「これから発売予定の新刊がある。僕がいなくなることで少しばかり発売日が変わるかもしれないけど、きっと春頃には世に出るはずだ。楽しんでもらえたら嬉しいな」


 永士はあくまでも笑顔だった。その笑顔がより今生の別れであることを実感させ、六花はその場に泣き崩れた。麟太郎は膝を折り、六花の肩を優しく抱く。


「麟太郎。君は僕の最高の親友だ。君やリっちゃんと出会えた人生を僕は誇りに思うなよ」

「……そういう感謝は、生身のうちに伝えやがれ」

「返す言葉もないよ。だけど、こういう状況になったから素直になれたとも言える」

「俺もお前を最高の親友だと思っている。お前のことを俺は絶対に忘れない」

「リっちゃんのことを頼んだよ」

「言われるまでもない」


 永士の意志を汲み、麟太郎は涙を浮かべながらも微笑んだ。六花も泣きじゃくりながらも顔を上げて、不器用に笑顔を作った。永士は笑顔で別れることを望んでいる。幼馴染として最後はせめて笑顔で見送ってあげたい。


「永士くんのこと絶対に忘れない」

「俺と六花はお前の分も長生きする。来世でまた会おう。親友」

「ありがとう。麟太郎。リっちゃん」


 優しい声色と笑顔を残し、寒凍霊を抱えた永士の姿は雪煙の向こうへと消えていった。

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