第24話 宿縁

「良い子にしてないと、寒凍霊に連れて行かれちゃうよ」


 相巣村への道中。永士は母、冬美のことを思い出していた。幼い頃に亡くなったこともあり、冬美のことをあまり多くは覚えていない。顔だって記憶よりも、遺影やアルバムの写真の印象の方が強いぐらいだ。そんな中でも一つだけはっきりと覚えているのが、悪いことをした時に冬美が決まって持ちだす躾の言葉。決して感情的ではなく、あくまでも冷静に、諭すような口調だったことが逆に印象に残っている。だからだろうか。怖い母親だったという印象はない。


「どこに連れていかれるの?」


 幼い永士は純粋にそう聞き返した。


「深い深い水の底」


 我が子を諭しながらも、その時の冬美は目の前の永士ではなく、どこか遠くを見つめているかのようだった。悪いことをした子供を戒めるために、地域に伝わる怖い話を引き合いに出すのはそこまで珍しいことではないだろう。相巣村において怖さの象徴は寒凍霊だった。現在の状況を考えれば、それは決して洒落にならない話ではあるが……。


 大人になってから思い返すと、この話には不思議な点が一つある。伝承としての寒凍霊に、誰かを連れ去るなどという描写はしない。氷鬼にされてしまうという意味かもしれないが、それだと「深い深い水の底」という具体的な場所を指した表現と矛盾する。我が子を戒める怖い話として、冬美が寒凍霊の伝承にアレンジを加えたのだろうか? だとしても、どうして「深い深い水の底」などと言ったのか。まるで冬美はその場所を知っているかのようだ。その場所については、村の出身として永士も一ヶ所だけ心当たりもある。


 今になってこのことが気になったのは、五十年前の災厄で、祖母の氷美子が寒凍霊の宿主だったという事実を知ったからだ。そのことが氷鬼となった今の自分の状態とも、何か関係がある気がしてならない。


「斜森永士です」


 真実を求めて、永士は伊予札医院の裏口のインターホンを鳴らした。正面玄関はバリケードで閉鎖されている。幸いにも氷鬼による襲撃が発生した気配はないが、持病のある住民の避難所として解放され、負傷者の治療も行っている伊予札医院は文字通り村の生命線だ。いずれ間違いなく襲撃は起きるだろう。


「斜森?」


 インターホンの通話に出たのは、伊予札医院の看護師で、永士の先輩でもある高倉睦月だった。


「ご無沙汰してます。高倉先輩。こうして話すのは久しぶりなのに、とんでもない状況になってしまいましたね」

「……開けてもいいのかな。斜森を疑いたくはないけど、役場の人から見知った相手でも警戒するように言われていて」


 すぐに鍵を開けない睦月の判断は正しい。敵意は無いとはいえ、今の永士は氷鬼なのだから。


「だったらインターホン越しでもいいから、伊予札院長と少し話をさせてもらえませんか? 大事な話があるんです」

「高倉さん。相手は永士くんかい?」


 インターホンの向こうで、来客に気付いた伊予札克己と睦月とのやり取りがかすかに聞こえてくる。


「彼なら大丈夫だ。通してあげてくれ」

「分かりました。斜森、院長が入ってもいいって」

「ありがとうございます」


 鍵を外す音がして、睦月が裏口を開けてくれた。永士の顔を見た瞬間、見慣れた後輩の姿に安堵の笑みを浮かべている。


「高倉先輩。こんな状況じゃなければ、もっとゆっくり話したいところですが」

「この窮地さえ乗り越えれば、またいつだって話せるよ。今度、六花や芹沢も誘ってみんなで飲みにいこう」


 永士は無言で首肯する。こんな状況でなければ、滞在中に睦月にも挨拶する予定だった。混乱の中ではあるが、こうして知人の睦月とも一目会えて良かった。恐らくこれが今生の別れになるであろうことを知っているのは、己の運命を悟る永士だけだ。


「私は院長室で少し永士くんと話してくる。何かあったら直ぐに呼んでくれ」

「分かりました。また後でね、斜森」


 克己の指示で、睦月は持病を持つ村民を避難させている病棟へと向かった。自然に人払いをするぐらいには、克己も深刻な話題であることを察しているようだ。


「自由に掛けてくれ」

「いえ。この方が落ち着くので」


 院長室に移動し、克己はソファーへの着席を促したが、永士は座らずに壁に背中を預けた。あまり長居するつもりはない。


「永士くん。先にはっきりさせておきたいのだが、君はもしや」

「はい。どうやら今の僕は氷鬼のようです」

「そうか……」


 目を伏せながらも、克己の動揺は最小限だった。


「気づいていたんですね?」

「混乱を避けるため、君と親しい高倉さんに伝えていなかったが、伝令に来た役場の職員から、スキー場で君が消息不明になったと聞かされて、覚悟はしていたよ。君はやはりスキー場で?」

「すみません。経緯は自分でもよく覚えていなくて」

「……死を経験するのだから、それも無理はないか」


 本当は全てを思い出していたが、それを克己に伝えるのは憚られた。バスが雪崩に巻き込まれて命を失ったと言えば、同乗していた息子の魁人もすでに亡くなっていて、氷鬼と化していると教えることになる。魁人も永士と同様に寒凍霊の支配を受けていない特殊な氷鬼の可能性があるが、それでも不確かな情報で、魁人が氷鬼であると、安易に父親の克己に伝えることは出来ない。


「僕が氷鬼になっている可能性を把握しながら、どうして受け入れてくれたんですか?」

「本来、氷鬼と意思の疎通を図ることは不可能だが、君の応答には紛れもない自我を感じた。それに君には何か特別な力があるのではと、以前から感じていてね」

「先生に会いにきて正解でした」


 母、冬美の友人であり、祖父の太助とも親交の深い克己なら何か知っているのではと期待してきたが、その口振りからやはり心当たりがあるらしい。


「どうやら僕は他の氷鬼と異なり、寒凍霊の支配を受けていないようです。そのため、寒凍霊は言葉による勧誘で僕を引き入れようとしていました。それが叶わぬと知ると、今度は僕が自由に動けぬよう、別の氷鬼を使って足止めをしてきました。何とか退けましたがね」


「寒凍霊は君を支配したくとも出来ない。足止めまで図る当たり、彼女はそうとう君を警戒しているな」


「ここに来るまでの間、僕と他の氷鬼の何が違うのかを自分なりに考えていたのですが……可能性があるとすれば祖母と母の存在ではないでしょうか? 先生は不在でしたが、スキー場に向かう前に役場で聞きました。五十年前の寒凍霊の宿主は祖母だったと。その時気づいたんです。母が生きていたら、現在は五十歳です。寒凍霊の宿主にされた時、祖母は母を身籠っていたのではありませんか?」


「君の想像通りだよ。当時は祖父と父の代だが、情報は父から引き継いでいる。五十年前、氷美子さんは冬美さんを身籠っており、暖火の儀の二か月後に冬美さんを出産。母子共に健康だったのだが、その二か月後に氷美子さんは原因不明の衰弱で亡くなっている。突然のことに、祖父と父も大きな衝撃を受けたようだ。医学的見地から原因を特定することは出来なかったが、四カ月前の出来事が影響していることは明白だ。寒凍霊の宿主となったことが、肉体に悪影響を与えたのだろうと結論づけられている」


「祖母のお腹の中にいた母も、寒凍霊の影響を受けていた可能性はありませんか?」

「無論。当時もその可能性は懸念され、祖父と父は冬美さんの状況を注視していたが、幸いなことに冬美さんの体調に異変は起こらず、健やかに成長したが……」

「二十五年前。母は二十五歳の若さで亡くなった。もしかして、五十年前の祖母と同じような状態だったのでは?」


「ああ。氷美子さんの時と同じ、原因不明の衰弱だった。このことからも、やはり冬美さんも胎児の状態で寒凍霊の影響を受けていたと見るべきだろう。冬美さんの体調不良自体は、永士くんを出産した数カ月後から始まっていたようだ……息子である永士くんの前でこんなことを言うのは酷だと思うが、二人とも我が子を出産した少し後に体に異変が起きている。まるで次代に繋ぐことがトリガーになっているかのようだ。亡くなるまでの期間の違いは、体力的な問題だったのか、あるいは寒凍霊から受けた影響の度合いの問題だったのか。私には何とも言えないが」


「寒凍霊の影響を、僕も受けていると思いますか?」


 永士の質問が全ての核心だった。氷鬼と化してなお、寒凍霊の支配を受けない稀有な存在。それは異変が始まった今日の出来事ではない。五十年前から運命づけられた宿縁だったのだ。同時に朧気な記憶の中の母親の意味深な言葉にも合点がいった。母親も寒凍霊の影響を強く受けていた。だとすれば、何か不思議な記憶や景色が見えていた可能性がある。それこそが戒めの言葉の正体なのかもしれない。


「科学的根拠など何もないが、その可能性は高いだろう。あくまで仮説だが、寒凍霊の宿主となった人間には何か、寒凍霊の因子のようなものが根付くのかもしれない。それは妊娠、出産を経て我が子へと受け継がれ、因子を失った母親の肉体は耐性を失い、寒凍霊のもたらす悪影響が一気に表面化する。そういうメカニズムなのかもしれない」


 克己の仮説はかなり具体的だ。村民の生命を預かる伊予札の一族であり、冬美の後輩として友人関係にもあった。表にする機会が無かっただけで、昔から独自に仮説を立てていたのだろう。


「寒凍霊の因子を持つ僕には、寒凍霊に対する耐性も備わっている。だから僕は氷鬼になりながらも自我を保てているというわけですね」

「全ては仮説の域を出ないがね」

「仮説が存在するだけ十分ですよ。今日という日は、説明のつけようのない不確かな出来事ばかりですから」

「違いない」


 重苦しい雰囲気の中でも二人は一瞬、相好を崩す。科学的な検証は不可能だが、この人間くさいやり取りもまた、永士の中の寒凍霊への耐性を証明しているようだった。

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