第32話 出立
そして、母たちの引っ越し前日。
母親たちからメッセージが来た。内容は「明日は、できるだけ早く来て」というもの。
来るなと言ったり、来いと言ったり、本当に自由すぎる母たち。ここまでくると、反旗を翻したくなる。だが、たぶんこんなやり取りも、きっと最後。今後は、すぐ来てとか、これから飲もうとか、気軽にできる距離ではなくなる。
彩芽の中では、切なさの方が大きくて、そんな不満はその中に消えていた。
そして当日。朝早くから、二人一緒に実家へ向かった。歩美の部屋のインターホンを鳴らすと、佐和が出た。
「早く上がってきて」
いつもなら、ここで何かしらの会話がありそうなところなのに、焦ったように言葉短くインターホンの通話は切られ、オートロックの扉が開いた。
「なんか、変な感じ」
「単純に片づけが終わってないんじゃないから、焦ってるんじゃないのか?」
「今更? それは、さすがにないでしょ」
そんな話をしながら、エレベーターで上がって、玄関を開ける。
陽斗の予想は見事に的中していた。段ボールが、散乱しているだけで、まったく片付いていなかった。
むしろ、普段通りの部屋の方がさっぱりしているように見える。
「今日、引っ越しなんだよね? 全然、片付いてないじゃない!」
彩芽が呆れかえって、叫んだ。
「片づけすると、懐かしいものがたくさん出てくるじゃない?」
「ついつい、盛り上がっちゃったのよ。そして、気づけば引っ越し当日になってて、びっくりしちゃった」
驚いたという割に、余裕とばかりな佐和が、手に持っていたアルバムへ視線を落として、歩美を呼んでいた。それに応えて、歩美が隣に座って覗き込む。
「ほら見てよ、これ。陽斗とアヤちゃんの小学一年の時の写真よ。懐かしいわね」
「一緒にプール行ったときのだ。この時、二人とも可愛かったよね」
「この時は、陽斗の方が背低かったのよね。小学校高学年くらいか、ぐっと伸び始めたの」
「そうね。彩芽がハル君にとうとう身長抜かされたって嘆いてたのがそのくらいだった。この頃は、本当に二人とも目に入れてもいたくないって感じだったわ」
アルバムのページを捲り始め、引っ越しのことを忘れて、脱線していく。その合間に、歩美が明け透けに「で、二人はどこまで進んだの?」と、親らしからぬことを質問してくる。彩芽の顔からぼっと炎が上がって、頭から湯気を出していく。
その反応に、ニヤニヤしている母親達。
引っ越しは完全に頭から抜け落ちて、酒でも出してきそうな勢いだ。
そんな二人へ陽斗は、鬼の形相でアルバムを取り上げて、睨み付けた。
「この前から、どうも二人の様子がおかしいと思ってたが……もしかして、引っ越しするっていうのは嘘だったってオチじゃないよな?」
陽斗の発言で、彩芽も我に返った。なるほど。引っ越しというのは、私けじめをつけさせるための虚言。そういうことだったら、この全く片付いていない状況も理解できる。妙に納得していると、佐和が鼻で笑って蹴散らしていた。
「陽斗、私たちにそういう疑いをかけてたってわけ? だから、乗り込んで来ようとしてたのか。あんたも、まだまだ、ひよっこねぇ」
「そんなしょうもない小さい嘘なんかついてどうすんのよ」
「つくならもっと緻密な計画を練って、壮大な嘘をつくわよ」
「私たちを舐めないでくれる?」
歩美が微笑んでそういうと、印籠のように陽斗と彩芽へと突き出していた。
「残念でした。ちゃんと引っ越し業者との契約書、あります。これは、偽造ではありません」
母二人は、ねぇーと二人顔を見合わせて同意し、笑っていたが、陽斗と彩芽の眉間に深い皺が寄っていた。
「緻密な計画?」
「壮大な嘘?」
「どういうこと?」
彩芽の目は完全に据わっていて、歩美と佐和が凍りつくが、慌てた佐和が、しどろもどろに弁解していた。
「もう、アヤちゃん、嫌ねぇ。例えばの話してただけでしょ?」
「本当に? そうは聞こえなかったけど?」
彩芽が追い詰めようとしたところで、「あ!」と、手に持った書面を見ていた歩美が叫んだ。
「大変! ずっと業者が来るの午後だと思ってたけど、十一時になってる!」
四人一斉に、壁掛けの時計を見る。すでに十時だ。引っかかっていた母たちの言葉はすっ飛んで、彩芽が叫んだ。
「あと一時間しかないじゃない!」
「さすがにまずい! 早くみんなで、どんどん段ボールに荷物詰め込んで! 用意できてなかったら、追加料金もらいますって言われてるの!」
本気で焦り始める歩美。ポンポンと散乱した品々を入れていく。それに引きずられるように佐和も叫んだ。
「陽斗は、うちに行くわよ!」
「え? うちも片付いてないのかよ。だったら、なんでこの前俺が来た時に、追い返したんだよ」
「うるさい! 口は動かさず、行動!」
陽斗はムっとしながらも、隣の部屋へ走っていく。
人間の火事場の馬鹿力というものは、本当にあるらしい。まったく片付いていなかった部屋は、引っ越し業者のインターホンの呼び出しと同時に、何とか終えていた。
引っ越し業者の手で、次々と手際よく運び出されていく荷物を見送る。
見慣れたソファ、テレビ、ダイニングテーブル次々と部屋から消えていく。すべて搬出し終え、みんなが部屋を出ていった。
最後に続いた彩芽も出ようとして足を玄関へ向ける。その途中で、足を止めてリビングへ戻る。
彩芽はリビングの壁へと目を細め、そっと撫でた。
この壁を叩いて、何度お互い呼び出し、呼び出されただろう。
その度に、この部屋に、抱えきれないほどの思い出が詰まっていった。
だけど。これで最後。もう二度と、ここに来ることはできない。
この感触を忘れないように胸に、空っぽになったリビングを脳へ忘れないように刻み込む。
そして、彩芽は、玄関を出て鍵をかけた。
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