第27話 それぞれの答え3


 とりあえず、今日はこの辺で終わりにしとくかと、彩芽がパソコンを閉じたのは日付が変わる時刻だった。

 

 そういえばと、背を向けているソファを見やる。座っていたはずの陽斗の頭が消えていた。ソファの正面へ回り込むと、寝息を立てている陽斗がいた。毛布もしっかり掛けられている。ソファなんて、寝心地が悪いだろうに。そう思ったところで、気付く。そこに追いやってしまっているのは、自分だ。

 考えてみれば、初めてこの家に来たときは、ほろ酔いどころか泥酔状態。記憶はあやふやだったが、しっかりとベッド寝ていた。ここ最近は、机に突っ伏して寝てしまったり、それこそソファで寝てることもしばしばあった。けれど、気づけばベッドの上というのが定番になっている。寝ていると必ず陽斗が、ベッドで寝ろと言って、背中を押されベッドまで誘導してくれている。その優しさに胡坐をかいているのは、紛れもなく自分自身。

 自己嫌悪に陥りそうになった時、時間に追われていることに気がついた。ともかく、さっぱりしよう。そう思い、シャワーで流してパジャマに着替える。そのまま寝室へ行ってもよかったはずだったのだが、つま先は再びソファの方へと向いていた。

 今日はベッドで寝なよと、声をかけようか、どうしようか迷っていると、気持ちよさそうな寝息が聞こえてきた。

 安眠をわざわざ邪魔する必要のは、逆によくないか。明日、ちゃんと代わってあげよう。そう思い直し、踵を返したところで、なんとなく後ろ髪を引かれる。もう一度振り返って、眠っている陽斗を見つめた。

 

 いつも一緒にいたから、これまでいちいち顔をいちいち確認したりすることは、なかった。気にしたこともなかったというのが正しいかもしれない。

 改めて、よく見てみると、女の子達が陽斗をちやほやしていた意味が、よく分かる気がする。鼻筋も通っていて、ちょうどいい大きさの涼しげな目元、上向き加減の形のいい唇。こんなにじっくり顔を見るなんて、初めてだった。すべてが整っていて、つい見惚れてしまう。陽斗って、格好良かったんだな。

 そこで、パッと形のいい瞼が開いて、視線がまともにかち合った。彩芽の心臓が飛び跳ね、身体も、同じように後ろに飛びのいた。

 

「お、起きてたの?」

 バクバクする胸を押さえながら赤く頬を染める彩芽に、陽斗はふっと笑っていた。

「明日も、仕事なんだから、早く寝ろよ」

 陽斗は、眠そうにそういって、また眠気に誘われるがままにゆっくり瞼が閉じられていく。

 このまま、寝ちゃうのか。そう思ったら、不意に寂しいと思った。いつもなら、そんなこと微塵も思わないのに、どうしてそんなこと思うのだろう。実家がなくなるという寂しさと共鳴してしまったのか。先ほどの自己嫌悪が尾を引いているのか。夜の暗さのせいなのか。

 口が勝手に動いていた。

 

「あの……えっと……何か、ごめんね」

 彩芽の突然の謝罪に、陽斗は閉じかけた瞼が、驚いて反応する。彩芽が謝罪だなんて、記憶にほとんどない。急にどうしたと、陽斗が身を起こした。

「謝られるようなことされた覚えは、ないけど? ……もしかして、寝込みを襲おうとしていたとか?」

「そ、そ、そんなわけないでしょ!」

 薄暗い部屋の中でもわかるほど真っ赤になって、否定する。陽斗は笑って立ち上がる。そのせいで、かけていた毛布が床に落ちていた。気にせずキッチンへ行って、冷蔵庫に入っていたペットボトルの水に口を付ける。

 そうやっていれば、大体の場合、彩芽はすぐ違う方向へ気が向く。だが、今回は予想外にその効果はないようだった。彩芽の華奢な後姿が、更に小さくなっている。陽斗は、眉を顰める。

「急に、どうしたんだよ?」

 陽斗の問いかけると、背を向けていた彩芽は半分だけ体を陽斗の方へ向ける。彩芽は、視線は陽斗の方へ向けられることはなく、目を伏せたままだった。陽斗は、益々眉根を寄せていた。

 

「いや……なんていうか……私って、人を振り回してばっかりだったんだなと……ちょっと反省してるっていうか……」

 ほとんど無意識に飛び出したのは、昼間関口へ向けたものも同じものだった。

 彩芽は、自分の足元にまで視線を落としていく。

 ここのところ反省すべき点が、炙り出されて、全部目の前に証拠として並べられている。

 八年前のは勝手な思い込みで、陽斗を傷つけ、塾の帰りの迎えに陽斗が来てくれていた理由も優しさだったなんて、考えもしなかった。それだけじゃない。最近では、陽斗に留まることなく、関口にまで迷惑をかけてしまった。陽斗のお陰で、何とか問題は解決したように思ったけれど、それを話しているときの陽斗は、ちょっと不機嫌そうだった。また気付かない間に嫌な思いをさせていたのかもしれない。

 現時点で認識しているのは、そのくらいだが、おそらく氷山の一角に過ぎないのだろう。陽斗は、恩着せがましくあれをやってやったと、言うような人じゃない。だからこそ、陽斗からよく鈍感だと称される私は、無意識のうちに、たくさん迷惑をかけていたのだろうと思う。そして、一番被害を被っていたのは、陽斗なんだと思う。改めて、その事実を突きつけられたような気がして、急に気分が沈んでいく。

 そうこうしているうちに、陽斗は何やら気遣うような瞳をよこしている気配を感じた。気を遣わせてしまっては本末転倒だ。そうさせたくなくて、笑ってみせる。

「ごめん。急に変なことを。ともかく、いつも私ベッド使ってるから、たまには陽斗が寝てよ」

 

 彩芽のいつもより高い声が、不自然だった。陽斗は、水を一口飲んで、思考を巡らせる。冷たさがのどを通り、体に馴染ませる。そして、静かに聞いた。

「もしかして、さっき鈍感だって言ったの、気にしてる?」

 陽斗の質問は、どうやら彩芽のど真ん中に刺さったようだ。彩芽が床に落ちていた毛布へ手を伸ばそうとしていた手が止まっている。

 やっぱり、そこに引っ掛かっていたかと陽斗は軽く息を吐いて再び水を飲む。

 彩芽は、自分のことはあまり気にしないが、他人が傷ついているのを目の前にすると、やけに敏感になる。それが、自分がの手でやったことなら猶更だろう。

 今、彩芽の一番のダメージになっているのは、関口という奴のせいだろう。お互い元通り仕事中になったといっても、彩芽の罪悪感は多少なりとも残っているはずで、それを拡大解釈して、何か他の出来事に結びつけてしまっているのかもしれない。

 だとしたら、数時間前彩芽に「やっぱり鈍感だ」と、関口という男にムカついて、つい口を滑らせたのは失敗だった。


「そんなこと、いつもいってることで、今更だろ。それに、一見それは短所に聞こえるかもしれないけど、少なくとも俺は、その彩芽の鈍感さに救われたことがある訳だし」

「……私は、陽斗を救った覚えなんて、ないけど」

 そういうところが、鈍いって言われる所以だといいたいのを堪えながら、言葉を選ぶ。

「彩芽は自分でも気付かぬうちに人を掬い上げていることが、往々にしてあるってことだよ」

 遠回しな言い方だという自覚はあった。こんな言い方じゃ、鈍い彩芽に言いたいことは、きっと伝わらない。もう少し、直接的にいう。

「つまり……そういう鈍感さは、むしろ彩芽の魅力になってるってことだ」

 これで少しは、わかってくれるかと期待したのに、彩芽は曖昧に頷いて、いまいち理解していないさそうな顔をしている。相変わらず視線は下に向いたままだ。

 やっぱり、これでも、ダメか。半ば、絶望的になりそうで、ため息をついて目を閉じて、葛藤する。あまりに明け透けにこの情けない思いを吐露するか? だが、そうすれば、俺はとんでもなく情けない男に成り下がる。だけど。プライドをかなぐり捨てでもしなければ、彩芽には一生伝わらないことは、この前の一件で十分理解している。ならば、もう、どうとでもなれ。

 

「俺はそういう彩芽もひっくるめて、好きになったんだ。だから、気にせずそのままでいてほしいと思ってるけど、関口とかいうムカつく奴が出てくるから、つい鈍感だって言いたくなるんだよ」

 俺はどれだけ、心が狭いんだ。やっと彩芽に近付けたと思ったら、こんなに不甲斐ない人間に落ち始めている。

 彩芽が落ちいていた自己嫌悪と一緒に、情けない感情がプラスされて、羞恥心さえも駆け上ってくる。 話せば話すほど、今の俺は、どんどんみっともなくなる。早く終了させたい。いまの一連の会話は、全部胃で消化されればいい。水をがぶ飲みしてれば、彩芽が軽い冗談でも言って、流してくれると期待する。だが、そんな都合のいい方向になんて、流れてくれるはずもなく沈黙が続いた。がぶ飲みした水が、逆に胃が重くなって後悔しそうになる。陽斗は、足早に近付いて、彩芽から毛布をひったくって、勢いよくソファに身を投げた。

 

「少なくとも俺は、そのままの彩芽がいいって言ってるんだから、それでいいだろ?」

 陽斗は、無様な現実を直視したくなくて目を閉じようとしたところで、彩芽の声が滑り込んできた。

「……陽斗、ありがとう」

 はっとして、閉じかけた瞼を開けた、先に彩芽の柔らかい笑顔とぶつかる。

 無様な自分を晒すことになっても、いつもの彩芽の笑顔が見られたのなら、その甲斐はあったのかもしれない。そう思うことにする。そう決めたら、ざわざわしていた心が凪いでいくようだった。自然と口角が上がっていく。

「余計なこと考えず、早く寝ろよ」

 彩芽は、今度こそしっかりと頷いてくれたが、 やっぱり、俺は格好悪い。

 だが、何とか穏やかに眠れそうだ。瞼をゆっくりと下げていく。その最中。

 

「……一緒に……寝る?」

「え……」

 閉じようとしていた目蓋が見開かれ、まともに丸い瞳とかち合った。ぶつかった視線から、初めて彩芽は自分が言っている意味に気付いただろう。彩芽は、真っ赤になって、慌てて今言った意味を弁解し始める。


「ご、ご、誤解してほしくないんだけど……変な意味ではなくて……純粋にソファなんかじゃ、ちゃんと眠れないだろうと思って……それで」

 せっかくそう言ってくれているのに、断ることもできない。

「わかってるよ」

 さっきの情けない男という汚名返上のために、目一杯紳士的な笑顔を作って、立ち上がり、彩芽の頭を撫でる。

「じゃあ、早く寝ようぜ。目の下のクマがすごいぞ」

 彩芽は、先ほどのうす暗さの名残の欠片さえも残さず、柔和な笑顔を向けてくる。

 そっと吹き消されていた蝋燭に灯をともしてくるように、ふわりと胸の奥が温かくなっていく。

 

 

 その数分後。

 無防備に身を寄せてくる彩芽は、あっという間に、規則正しい寝息を立てていた。一方の陽斗は、多幸感を味わう代償として、安眠を差し出す。天国と地獄の境目を綱渡りしながら、自分の胸に華奢な身体を引き込んだ。

 さて、指輪はどうしようか。

 そんなことを考え始めたところで、彩芽の深い眠りが伝染していた。陽斗もまた穏やかな眠りへと誘われていた。

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