第21話 邁進3

 早めに家を出たつもりが、結局はいつもと同じ時間に到着した。陽斗は、鞄をデスクにしまいながら、昨日のことを思い返していた。

 

 昨晩は、完全に有頂天になっていた。彩芽の上限を振り切っていることにも気付いてやる余裕もなかった。彩芽が帰った場所は、新居だということも理解していなかっただろう。いつも通り、実家へ帰ってきたという認識だったのだと思う。考えてみれば、彩芽がいつも眠いと言ってソファで寝始めた後は、自分は家に帰るか、隣の部屋へ彩芽を送り届ける。その先、彩芽がどんな行動をしているかまでは、知らなかった。

 まさか、こんな大胆なことをするなんて。

 彩芽は、家に着くなり、どんどん薄着になろうとしていった。

「ちょ、ちょっと、待った!」

 陽斗がいくら静止しても、彩芽の瞼は半分ほどしか開いていない。彩芽の脳はもう眠ってしまっていて、理解などしている様子はなかった。

「待てなーい」

 彩芽の喋り方は酒に飲まれて緩慢なくせに、手を止めようとしない。

 新居は初めて踏み入れる場所で、どういう構造になっているのかよくわからなかったが、リビング横についているドアの奥が寝室なのだろうと直感し、彩芽を慌てて押し込んでドアを閉めた。しばらく、ばたばた物音をさせていたのだが、数秒後には何の音もしなくなった。寝たなと、思ったが、心臓に悪いし、そのままそっとしておこうかと思った。でも、床で寝ているという可能性も捨てきれない。

 確認のために、寝室のドアをそっと開いた。ベッドに倒れ込んでいる姿を確認して、とりあえず、安堵したのだが。布団は何もかかっていない。その姿が、何とも言えぬ状態で、心臓が止まりそうだった。

 それでも、理性を総動員して煩悩を捨て去り、目を瞑りながら、何とか布団をかけてやったのだが。何を思ったのか、俺の首に彩芽の細く滑らかな手が巻き付いてきたのだ。

 彩芽の手のひらは、ひんやりしているのに首元が熱くなった。引き寄せられた耳元に吐息がかかる。ぐわっと心臓が飛び回って、捨て去った煩悩が駆け足で戻ってきていた。

 酒の勢いで、こうなることは正直不本意だと思った。だが、お互い思い合っていることだし、いつかはこうなることだ。

 ならば、流されてもいいのでは。そんな浅はかな方向へ向かいつつあったのだが、首に巻き付いた手は簡単にするりと解けていた。煩悩を慌てて引きはがし、ざざっとベッドから後退した視界の先の彩芽は、穏やかな寝息を立てていた。


 わかっていたさ。彩芽は、そういう奴だ。

 とんとん拍子なんていくはずがない。

 そう言い聞かせて、飛び回っている心臓をもとの位置に戻そうとしたが、なかなかうまくいかなかった。リビングに設置されていたソファで横になってはみたが、ずっと眠りが浅かった。寝たのか寝ていないのかも曖昧なまま起床してみたものの、落ち着かない。このまま彩芽と顔を合わせるのもと思い、早めに家を出たのだが、ぼんやりしていたせいか、結局会社に入った時間はいつもと同じ時間だった。

 すでに、目の前の席には根岸が座って、じっとこちらの様子をうかがっていて、心臓が縮みあがった。

 

 

 

「西澤君。ニヤニヤしてるところ悪いけど」

 根岸に指摘される始末。そんなに、変な顔をしていたか。気を引き締め直す。

「今日の夜、フットサル接待だからね」 

「はい?」

「恒例のヤツよ。あ、西澤君初めてだっけ? うちの大手取引先のトップ社。やっぱり元々サッカーやっていた人たちが多くて、この時期になると必ずやるのよ。フットサル忘年会。膝悪いとか言ってたけど、フットサルくらいなら、気合で大丈夫でしょ。女の子たちも応援に来るっていうし、西澤君は、強制参加だからね」

 強制だなんて、時代錯誤甚だしいと思うが、社風というものがある。それを知った上での入社だから、仕方がないが、いつも思う。

「せめて、もう少し早く言ってくださいよ」

 陽斗の苦言に、根岸は口には出さないが「私に文句あるの?」という顔をしている。この前飲みに行ってからというもの、根岸のパワハラ体質が隠し切れなくなっているようだ。

 つい不満が出てしまったが、よくよく考えれば、こんな時だからこそ、体を動かせるのは有難いことだ。気を取り直すことにする。

「わかりました」

「すぐそこのフットサル場ね。さっさと仕事終わらせるわよ」

「了解」


 てきぱきと、仕事を終えて、 言われた通りの場所へ向かう。ナイターの為、煌々と照らされピッチへと立った。


 自社の商品がしっかりと上から下まで用意されていて、袖を通す。新品の真新しい匂がしたが、違和感は全くなかった。怪我をして以来の芝の感触。フットサルだから、広さは半分ほどだが、ずっと忘れていた闘争心に火が付いた。

 

 試合が始まれば、体は覚えていた。数年前に、自分が走り回っていた頃と同じくらい、体は自然とよく動く。ゴールも決め、それなりの活躍もできた。見事我が社のアシストが勝利を収めた。

 礼をして、汗を拭きに帰ると、キャーッと外野の黄色い声援が飛んできた。他社の女子の視線も痛いくらい集まってくる。こういう感じも懐かしい。

 試合を終えて、着替えを済ます。敵チームであった取引先の面々とアシスト社員が、ほぼ貸し切り状態で居酒屋へ雪崩れ込んでいた。

 

 

「西澤さん、本当に素敵でした。惚れ惚れしちゃいました」

 取引先のよく見かける和泉という若い社員を始め、目をキラキラさせてくる。ずらりと陽斗の周りに集まっていた。久々の注目度。悪い気はせず、ちょっと得意げになっていると、その女子たちを押しのけるように根岸が、「鼻の下伸ばすんじゃないわよ」と、かき分けてやってきた。


 また、小言を言われるかと思いきや、意外にも根岸は褒めてきて、驚いた。きっと酒のせいだろう。

「西澤君、ペテン師じゃなくて、本当にサッカー上手かったのね」

 ハイボールを片手に、そういう根岸に、陽斗はビールを喉へ流し込む。心地よい爽快感だった。

「疑ってたんですか?」

「そりゃあ、ね。サッカーに限らず、スポーツ選手って、みんな自分を誇張するでしょう? そうやって自分を追い詰めて、自分を鼓舞するわけで仕方ないところはあるけど。信用は、ないわよねぇ」

 悪意のある言い方だ。思わず「昔、痛い目でもみたことあるんですか?」と軽い口を叩けば「殺すわよ」百倍になって返ってきた。

 根岸の目が座り始めるが、大勢の前で自制したようだ。何とか気を取り直していく。

「そんなに上手かったら、スカウトだって来たんじゃない? 挫折した時は、這い上がるの大変だったでしょう? 私なんて、人生終了した絶望感を何年も味わったものよ。正直、今だって、引き摺ってるわよ?」

 それが、スポーツ選手として生きていきたいと少しでも思った人間なら理解できる、率直な感想だろう。その気持ちは、よくわかる。

「怪我した直後は、やっぱり絶望感はありましたよ。でも、そこから立ち直るのには、それほど時間はかかりませんでした。根岸さんが想像しているよりも、ずっと早かったと思います」

「へぇ。例の奥さんがいたからってこと?」

「まぁ……そんなところですかね」

 言葉を濁して、答えると、周りの女性たちがわっと群がった。

「え? 奥さんって……西澤さん、結婚してたんですか?」

「そうよー。西澤君にあんまりちょっかい出さないように、気を付けてね」

 悲鳴が飛び交う中、陽斗はあの日を思い出す。


 

 怪我をして入院している期間。サッカー部のメンバーも、ひっきりなしに見舞いにやってきていた。それまでは顔を合わせれば、サッカーの話ばかりだったのに、急にその話題は触れないように、当たり障りのない天気の話やニュースの話題。もしくは、またサッカーできるようになるさという、下手な励ましの言葉をかけてくるかだった。それぞれ持ち寄ってくる話題は違えど、表情だけはみんな共通していた。みんな、気まずそうな顔をして、ちらちらと顔色を伺ってくる。そんなに気を遣われるくらいなら、来てくれなくていいのにと思ったものだが、無下にすることもできず、その時間を作り笑いでやり過ごす。そんな、苦行のような面会時間を終えるぎりぎりの時間帯に、必ず彩芽はやってきた。

 彩芽は、みんなとは真逆だった。ズケズケといつも通りサッカーの話題を持ち掛けてきていた。


「友達は、みんなサッカーの話題を避けるけど、彩芽は真逆だよな」

 彩芽と同じ様に率直な物言いをしても、彩芽は全く悪びれる様子もなく、平然と答えた。

「だって、つい昨日までサッカーやってたんだし、いきなり話題にしなくなる方が不自然で、疲れるでしょ? 陽斗が気を遣ってほしいっていうのなら、やめるけど?」

 そういうことも、普通なら聞きにくい繊細な部分として扱われるところだろう。それなのに、彩芽は本当に明け透けに何でも言うし、聞いてくる。気遣ってくれているのか、そうじゃないのか、わからないところが、気楽で有難かった。

「いや、変に肩が凝りそうだから、普通通りで」

 そう答えれば「あ、そうだ!」と急に、コロっと話題を変えてきていた。そういうところも、いつも通りの彩芽だった。

 

「ちょっと、いいところ行っちゃう?」

 いたずらっぽく笑って、提案してくる彩芽。成人式の悪夢が蘇って、思わず彩芽の手にビニール袋が下がっていないか確認してしまった。

 

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