第22話 邁進4

「また、酒持ち込んできたんじゃないだろうな?」

 その顔は絶対に何か企んでいる。どこかに酒のボトルでも隠し持っていないか、きょろきょろ病室内を見回す陽斗に彩芽は、苦笑いを浮かべながら言った。

「まさか。もう、凝りました。じゃあ、そろそろいい時間だから、行こうよ」

「いい時間?」

 陽斗の問い返しに、彩芽は相変わらず悪そうな笑みを浮かべるだけだった。そして、彩芽は成人式の日と同じように、再び強引に車いすに乗せられて、上着を着ろと言われ、仕方なく言う通りにした。成人式の日は、上着なしの寒空に連れ出されたが、似たような状況にデジャブだと思った。しかし、行先は違っていた。

 一直線に向かった先は、病院の外。


「勝手に抜け出したら、まずいだろ」

 勢いよく車いすを押し続ける彩芽に、制止を促しても涼しい顔。

「ちょっとくらい、大丈夫よ。今回は、ちゃんと看護師さんに言っておいたし、問題ない」

 入院していた病院は、都内のど真ん中。外に出れば、病院とは別世界の日常が広がっていた。夕暮れ時で、人々の足も早まっている。その合間を縫って、彩芽はどんどん車椅子を押して、高層ビルの中へ迷いなく入っていった。

 

 そこは、商業施設の入った高層ビル。そのエレベーターへと、一目散に吸い込まれた。

 彩芽が、勝手知ったる場所だというように得意げな顔をしていたが、不安しかなかった。こういう時は、ろくなことがない。だが、この時だけは違っていた。

 

 狭いエレベーターから解放されて、視界が拓けた先は、都内を一望できる展望室だった。

 大きな窓の奥には、小さく見えるビル群。奥に見える東京湾。病院から抜け出して、ごみごみした人々と色のない場所を縫ってやってきた数分前の場所とは、大違いだった。

 視界いっぱい、胸を突かれてしまいそうな絶景。昼間見ても、この広い世界に圧倒されていたことだろう。だが、その時は、それ以上の景色。夕焼けに彩られた幻想的なオレンジとピンクに染まった世界が一面に広がっていた。


「どう? なかなか、いいでしょう?」

 彩芽は、陽斗の目線と合わせるように、横にしゃがんで、自分の膝に頬杖をつきながら顔を向けてくる。穏やかに笑っていた。

「この前、面会しに行った後、ぶらぶらしてたら見つけたの。やっぱり、黄昏時にきたのは、正解だったね。今日は、天気もいいし。ラッキーだ」

 穏やかにそういう彩芽の顔も夕焼け色に染められていて、思わず見とれそうになった陽斗のことなど、気付くはずもない彩芽は、合わせていた視線をすっと展望室の窓の外へ向ける。

 

 

「泣きたいときは、泣いとけば、いいよ。泣くことは、悪いことじゃない。この先、前を向く為の儀式みたいなものなんだからさ」

 突然、思わぬ言葉がふわりと、胸の中心を包み込むように落ちてきて、驚いた。

 見開いた瞳は、彩芽から張り付いたまま動けない。彩芽は、相変わらず窓の外へ視線を向けたまま、交わることはなかった。

 

 自分は、そんな泣きたそうな顔していたのだろうか。怪我をした当日だって全く、涙なんか出なかったし、泣きたいなんて思ったことはなかった。不思議なほど、ショックなど受けていなかった。

 多分、サッカーへの諦めは病院に運び込まれる前。ピッチで怪我をして、倒れ込んだ瞬間から、気持ちの整理はついていたのだと思う。だから、今だって泣きたいだなんて微塵も思っていない。サッカーに未練なんてない。また、ピッチに立ちたいなんて、思えない。きっと、この先も。

 そう言おうとしたのに、喉の奥が痙攣してきて、声にならなかった。一体、どうしてしまったのか。自分の体に起きている異変の理由が、理解できなかった。それなのに、彩芽は自分以上に理解しているかのように、いった。


「もうサッカーは無理だって、言われたかもしれない。それでも、陽斗がまだやりたいと思うのなら、とことんやればいい。辞めたいのなら、辞めればいい。自分の心のままに、行けばいいよ。どっちの道に行ったって、陽斗は大丈夫。悩む必要なんてないよ。だって、この私がちゃんと、傍にいてあげるんだからさ」

 彩芽は、前を向いたまま、自信満々に自分の胸を叩いていた。その瞬間、何かがプツンと切れた音がした。縮んでいた胸が、解放されたように緩んでいく。その感覚で、ずっと胸が締め付けられていた鎖が、あったことに気づいた。その鎖は、何かの呪いだったのかもしれない。いつかかってしまったのかも、かかっていたことさえも自分自身が気付かぬ間に、彩芽はいとも容易く解いてしまっていた。

 その呪いから解放された途端、ものすごい痛みに襲われた。その痛みは、足なんかじゃなかった。目の奥が細い針で刺されたように鋭く痛み、鼻の奥がツンとしていく。怪我をした時の痛みと比べ物にならないほど、鋭い痛みだった。

 耐えきれない痛みのせいで、視界はどんどん滲んで、不明瞭になった。近くにいるはずの彩芽の顔が、よく分からなくなる。それなのに、景色だけは、皮肉なほど奇麗に見えた。空とビルの境目も全く分からなくなって、ピンクとオレンジの空だけが一面に広がっていく。 

「隣にいる奴……頼りなさすぎだろ……」

 苦し紛れの一言を返すだけで、精いっぱいだった。そして、この時初めて気づいた。解かれた呪いは、泣けない呪いだった。本当は、思い切り泣きたかったことに。

 

 それから、情けなく咽び泣くことしかできなかった。彩芽はいつの間にか手に持っていたハンカチを、ポンと陽斗の膝の上へ置いて、一歩前へ出ていた。後頭部しか見えない位置で、少しの距離を保って、そのまま長い間、彩芽は遠くの景色を眺め続けていた。

 励ましの声はない。ただ、静かにそこにいた。

 やっと落ち着いたのは、太陽が沈み、光を失った空の下、煌々と輝く美しい夜景が現れた頃だった。

 

 それから数日して、気づいたことがたくさんあった。

 怪我をした瞬間、それほどのショックを受けていないと思えたのは、何とかなるだろうくらいの軽い気持ちだったこと。医者から、死の宣告を受けても、実感が湧かなかったこと。見舞いに来る部活メンバーがくるうちに、その中に自分の居場所はもうないのだな、と少しずつ思い始めていたこと。心の隙間に色濃く暗い影が差しこんできていたこと。そして、本当は……サッカーを諦めきれていなかったこと。

 自分のことなのに全く気づけなかったことを、彩芽は全部知っていたことを。

 

 あの時、彩芽がいてくれなかったら、今ここで、こうして笑ってはいられなかったと思う。無理だと言われたサッカーに執着して、光を失い真っ暗になってしまった一本道を自暴自棄になって突き進んで、這い上がれないほどのどん底に落ちていたか。すべてを投げ捨て、荒れ果て、腐っていたか。



 陽斗が思い馳せていると、根岸は呆れるようにいった。

「それ、もう彩芽さんからの告白じゃない」

「普通なら、そう思いますよね。でも、彩芽は本当に昔から、空気が読めないというか……だから、ここまで時間がかかったというわけで」

 多分この先も、彩芽には思い悩まされるんだろうなと思う。だけど、きっとその悩みは、この先に彩を与えるものだ。そんなことを思っていたら、みんなが「もうこれ以上の惚気はおなか一杯です」といって、霧散していく。

 そんな中、根岸は残り「益々、彩芽さんに会ってみたいわ」とうっとりと、笑っていた。

  


 

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