第3話 そして、二十四歳

 今日は自分の誕生日だといっても、仕事は淡々と進行し、日常は変わりなく流れていくものだ。

 その流れに、身を任せるように彩芽は、丸い顔に化粧を施し、身支度を整えて家を出ようと玄関のドアに手をかけようとして振り返る。いつもならば母から「いってらっしゃい」と、眠気眼でも出てくるのに今日は、それがない。体調でも悪いのだろうか。

「お母さん、大丈夫?」

 一応大声で叫んでみる。

「大丈夫。今忙しくて出られないだけー。お誕生日おめでとうー。いってらっしゃーい」

「行ってきます」

 元気な声が返ってきて、ほっとしながら今度こそ、家を出た。

 

 自宅から駅まで徒歩十五分ほど。北風を正面から受けて立つように、速足で歩いていく。そんな寒さにやられたのか、子供の頃を思い出す。あの頃は、自分の誕生日というだけで、やけに楽しく、嬉しかった。今思えば、一体何が楽しかったのだろうか。冷えた身体のせいか、そんな冷めた思いが、吐く白い息と一緒に浮かんでくる。そんなことを考えてしまっている自分は、随分と捻くれた大人になってしまったのかもしれないな。苦笑して、満員電車に押し込まれれば、自分の誕生日も押しつぶされて、頭の中は隙間なく仕事が占領していた。

 電車に揺られて三十分ほどで、新宿にある松越百貨店の従業員通路を通り抜けて、いつも通り、店頭へ顔を出し、接客し、昼休憩前の会議に顔を出していく。

 

「例えば、和菓子と洋菓子のコラボなど……次回は各担当斬新且つ、親和性と盛り上がりそうな食品コラボ企画について、本格的なアイディアを出し合い、議論しようと思います。資料をまとめておいてください。では、解散」

 司会者の掛け声とともに、眼光鋭い敦巻あつまき食品部門長が大きく頷き、立ち上がる。退出する道すがら、敦巻が彩芽の上司でありワインバイヤーである藤原に声をかけていた。

「ワインは、いつも通り肉で頼むよ。スモークもいいよね」

 トンと、藤原の肩を叩いて退出していった。横にいたアシスタントバイヤーである彩芽の耳にもしっかり届いて来る。一歩遅れて、机の上の資料を片付けているその横を、和菓子、洋菓子、生鮮、グローサリー調味料……様々な担当バイヤーが、話し合いをしながら出ていく。この後は昼休憩に入るから、みんなご飯を食べながら話し合いでもするのだろう。

 取り残されたように、最後にワイン担当のバイヤーであり、上司の藤原と彩芽が退出した。

 

「みんな、飯いっちゃったなぁ。まぁ、ワインは仕方ないよね。肉か魚と相場は決まってるし、広がりない。僕らは、寂しく二人で社食にでも行こうか」

 不満そうに頬を膨らませている彩芽へ弁解するように、藤原は自分の少し薄い頭を撫でつける。

「私は、よくお菓子をつまみに飲みますよ。甘いものにワインも最高です。洋菓子とかでも、いけるのに」

「あはは。さすが、年季が入っている高島さんは、違うねえ」

 豪快に笑う藤原の声と重なるように、彩芽のポケットの中のスマホが震えた。光った画面だけ確認すると、母からだった。朝、様子が変だったし、何かあったのだろうか。少し緊張しながら、冷たくなった指先で画面をタップする。

 

『彩芽へ。お誕生日、おめでとう! というわけで、今日から、二泊三日で温泉行ってきます。もちろん、佐和さんと一緒。よろしくー』


 目がチカチカするほどの派手な装飾がなされたメッセージ。目の奥を貫いて頭痛がしてきそうだ。

 心配が解消されて安堵するどころか、大きなダメージを受ける。彩芽から、大きなため息が、思い切り漏れると、すかさず藤原が興味津々の顔で尋ねてくる。

「お? 相手は、誰なのかなぁ?」

 藤原は、彩芽が絶大な信頼を置いている直属の上司。彩芽の新人教育担当だったということもあり、何度も飲み連れ出してくれたし、気心知れている。藤原は、五十代半ば。薄い頭部さえ見なければ、肌はハリがあってとても若く見える。そんな彼には、高校生の娘と大学生の息子がいる愛妻家だ。飲みに行ったときは、必ず妻の話と子供の話が酒の肴に出てきて、全部のろけにしか聞こえない。甘くて甘くて、胸やけしそうな話ばかりで、彩芽のワインを飲むスピードもよく進んでしまう。その勢いもあって、余計なこともつい何でも話してしまっているし、遠慮もなくなっている。

「そういう発言、私だから許されますけど、他の女の子にそれ言ったらアウトですからね」

「あ、ごめんごめん。どうも、今の時代の流れに乗れなくて」

「別に、いいですけど。これ、見てくださいよ、これ」

 彩芽がスマホの画面を見せると、藤原は、豪快に笑っていた。

「おぉ、娘の誕生日なのに、お母さんも、自由人だなぁ」

「『も』って、なんですか? まるで私も自由人みたいじゃないですか」

 彩芽が藤原を睨もうとしたら、前方を歩いていた彩芽と同期で洋菓子担当の関口要が、待ち構えるように立っていた。彼もまた、藤巻の新人教育を受けた一人。関口も彩芽同様、藤巻になんでも相談をしているようだ。こそこそ廊下で二人話し合っているのを、度々見かける。

 

「お? 関口君どうしたの?」

 お疲れ様ですと、関口は、やけに恭しく藤原へ接客業らしい綺麗なお辞儀をする。そんな、律儀な奴だっただろうか。彩芽の頭の中に、疑問符が無数に浮かぶ。同期で飲みに行ったときは、真面目というよりか、お調子者というイメージだったのに。

 関口が顔を上げると、たれ目がちの双眸がちらりと彩芽を捉えたあと、すぐに藤原へ向いていく。すると、藤原は「あ!」と、不自然な声を上げていた。

「あぁ、なるほどね。さっき、洋菓子とコラボいいかもなぁ。確かに、若者の意見を取り入れるのも大事だよなぁ。じゃあさ、この後二人飯に行って、何となく話まとめてきてよ。今日は愛妻弁当持ってきてたから、僕は事務所で食べるよ。じゃあ、またあとで」

 手をひらひらとさせて、さっさと行ってしまう。なんなんだ、急に。

 これでは、藤原の方が自由人ではないか。意味が分からない。困惑する彩芽に、関口は笑顔で促し、そのままランチ休憩に突入していった。

 

 社員食堂は、昼時間の真っただ中ということもあって、混雑していた。タイミングよく二席分の小さな丸テーブルが空いて、関口はカレー。彩芽は、うどんを食べ始めようとしたら、先ほどの律義さはどこへやら。関口が、業務に関係のないことばかり、大いによくしゃべり始めていた。

「来週衆議院選挙だね」

「選挙興味ないなぁ。投票したこと、一回もない」

 藪から棒にいったい何の話だと思いながら、彩芽が適当に答えれば、コロコロと話題が変わっていった。天気、電車、出身地の話……その間に、彩芽のどんぶりの中のうどんは、最後の一口となっていた。最後のうどんを箸で掴んで口へ運んでいく。

「昨日の日本代表サッカー見た? 日本勝ったよね」

 うどんを食べる手が一瞬だけ止まるのを、関口は見逃さない。

「サッカーは興味あるんだ?」

「友達がずっとやってたからね。多少は」

 彩芽の答えで、関口のよく動いていた口が怯んだように、席に着いてから全然進んでいなかったカレーを一口頬張った。それに合わせて、最後のうどんを今度こそ口の中へ運ぶ。咀嚼していると、また関口が口をもごもごさせていた。

「へぇ。どんな友達?」

「飲み仲間みたいなもんかな」

「付き合ってるわけじゃないの?」

「うん。ただの隣人ね」

 彩芽の答えに、関口の顔に笑みが浮かんでいる気がするが、意味がよくわからず彩芽は口の中のうどんを飲み込んだ。すると、むくっと仕事の話が頭を占領していく。

「あ、そうだ! それで、いつもそいつと家で飲んでるんだけど、この前取引先からいただいた赤ワインがすごく良くてさ。洋菓子で出してるフェルメールのチョコパイに凄く合うと思ったの。今度、試食用に少し分けてくれない?」

「あぁ、いいよ。早速、後で頼み込んでくるよ」

「助かる! よし、じゃあ今夜は、ちょっといいワイン奮発して買って、飲もうっと」

「今日は、何か特別な日なの?」

「一応、今日誕生日なんだよね。今夜は、家に帰っていい気分になっておこうかなって」

「そうなんだ! おめでとう! じゃあさ、僕と外へ食べに行かない? 奢るよ」

「あぁ、気を遣わないで。誕生日は、いつも通りって決めてるから。それに、今日は早く、フェルメールと赤ワイン試してみたいんだ。一応、その友達もワインのおいしさの判断は一応できるみたいだから、感想聞いてみるね。まぁ、どうせ『うまい』しか言わないし、何の参考にもならなさそうだけど。それで、よかったら企画に出さない?」

「……あ、わかったよ」

 関口は、力なく頷く。先ほどとはうって変わって、意気消沈したように、覇気がなくなっていた。威勢の良かった関口の急激な変化。しかもカレーは半分以上更に残っているのに、立ち上がり始めている。彩芽は目を何度も瞬かせ、首をかしげる。

「どうしたの?」

「いや……コラボ企画は、進めよう。試食用の取引先に頼んでみるよ。じゃあ、先に戻っているね」

 ちょっと待ったと、呼び止めようとしたところで、彩芽のポケットのスマホがまた震えだした。また母かとも思いながら、取り出す。煌々と光るスマホの画面の相手。今回は、陽斗だった。

 

『誕生日、おめでとう。今日は、ファミレス集合で』

 お互いの誕生日には、一応おめでとうとは言い合うが、プレゼントを贈り合ったり、特別何かをするようなことはしない。高校の時、そんな約束を作っている。あくまでも、通常運転で突き通す。その方が、傷つかなくて済む。

『了解。二十時集合』

 それだけ返して、スマホをポケットにしまう。そして、急にいなくなった関口に何か悪いことをしたのか、彩芽は頭を捻らせていた。



 

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