第27話 狂い始めた歯車

その瞬間、破壊だけが世界を支配していた。


鋭く、そして速く。ただそれだけの単純な殺意が無数の氷塊に込められ、敵を抹殺する為に虚空を駆け抜ける。


風を切り裂く轟音を伴いながら飛翔する氷塊の一つ一つが人間の頭ほどの大きさであり、その全てが人体を容易く食い破る硬度と速度を込められていた。無機質に咲き誇る氷の結晶の模様を内包したそれらは命に飢えた猟犬の如くに襲い来る。


正しく弾幕。面制圧という点においては文句の付けようが無い圧倒的な物量による破壊がたった一人の人間へと冷ややかな死となって降り注いだ。


僅かに掠っただけでも肉を抉り、舞い散る血飛沫すら凍て付かせながら敵を撃滅するは必然の無数の魔弾。


そしてそれを迎撃するもまた、規格外の破壊であった。

瞬間的に膨れ上がった鏡面の様に艶やかな液体金属の奔流がその全てを薙ぎ払い、降り注ぐ氷塊の全てを岩壁へと叩きつける。


まるで巨人のかいなが凄まじき剛力と共に振るわれたかの様に、抉れた岩壁が砕け散る轟音が鳴り響くと共に衝突による衝撃波が突風となって吹き荒ぶ中で相対する少女達。両者は互いに自らの武器を相手へと向け、言葉を紡ぐ。


「貴女はお姉さんを誤解している。こんな事を言っても信じられないかもしれないけれど。」


白銀の鎧の様な意匠が込められたバトルドレスに身を包む青い髪を後ろで束ねたポニーテールの少女───卜部香織うらべかおりの手には大海の透き通る様な蒼をそのまま写し取ったかの様な色彩の大剣が握られていた。


しかし注視すればその刃も仮の形でしかない事に気づくだろう。絶えず流体として動き、流れる水の様にその手の中で刻一刻と微細な色彩の変化を見せるその美しき刀身は武の為というよりも工芸品、美術品として目に映る。


「口、開かないでもらえますか?犯罪者の臭いが移るので。」


そしてそれに対峙するのはその顔を激情を通り越した怒りによる無表情に染め上げた氷峰裁歌。その身に一切の寸鉄を帯びず、丸腰でありながら周囲に滞空する氷塊が彼女が武器を持たずとも容易く殺傷を可能とする存在である事を示していた。


両者の間に緊張が満ちる。言葉での応酬はこれにて終わり。そも、語り合うだけで全てが解決する程に人類が賢いならば、この星はこれ程までに血で濡れてはいなかっただろう。


故に、この後に待ち受けるは────



限定具象化エロヒム・ツァバオトッ!」



必然、言葉による対話ではなく暴力による応酬である。


先手を打つは香織。迫真の叫びと共にその肉体に紐付けられた魔神の亡骸セフィラ・ツリーが世界に投影する異界の法則の導くままに、渾身の力で手にした大剣を振り抜いた。


刹那、少女の嫋やかな腕に似合わぬ速度で振るわれた大剣の斬撃の軌跡から滲み出すように顕現するは多頭の蛇を模った白銀の奔流。鎌首をもたげ、地下の全てを埋め尽くさんと煌めく肉体を変容させながら突き進むその威容は古くこの国に伝わる災害の具現、八岐大蛇を思わせる。


否、もはやその首の数は八つに留まらない。分裂と増殖を繰り返し、海から来たる厄災の波濤と見紛う規模と速度で押し寄せ───



氷界跋扈ニブルヘイム。」




言祝ことほぐ様に、吟じる様に。この絶死の空間に似合わぬ可憐に響いた少女の言葉は、裂帛の気合に満ちていた香織の詠唱とは対照的な静かな響きを以て空気を揺らし───


そして詩吟の如く美しく響いた少女の詠唱と共に交響曲の指揮をするかの様に緩やかに振るわれた少女の腕により世界から一切の動きが奪われた。氷結と形容することすら生ぬるい広範囲に瞬間的に展開された静止の領域は押し寄せる水銀の怪物を荘厳な氷像へと変え、空中を漂っていた粉塵は細氷ダイヤモンド・ダストとなりて美しく煌めきながら空を舞う。


自らの内部に渦巻く法則『静止』を瞬間的に体外に流出させ、既存の世界の法則を侵食する事によりノーモーションで広範囲を凍結する彼女の称号コードネームの由来となった技。戦略級の異能行使者のみに許された地球の法則の上書きはこの神宿駅の法則をも容易く書き換え、世界を氷結による静止へと染め上げた。


一瞬にして静寂と死に支配されたその空間を瞬時に作り出した少女が振り払ったその手を下ろすと同時に、示し合わせたかのように再び轟音が鳴り響く。

その手の動きに従うように崩れ落ちるは多頭の蛇。流動を繰り返し千変万化の彩りを示す液体金属も彼女の前では脆く崩れるのみ。その背後にいるであろうレジスタンスの少女の末路は言わずもがなだろう。


「貴女のような人間には勿体無い最期ですよ、楽に即死だなんて。」


耳障りな音と共に砕け散りながら崩落する氷像を視界の端に留めることも無く、裁歌は舌打ちと共に己の背後へと視線を移す。


視線の先にあったのは空中に静止したまま、微動だにせずその瞳を閉じている少女。整った容姿も相まってともすれば精巧な彫刻にすら見紛いかねないが、呼吸により僅かに上下する胸が彼女がそうではないことを示していた。


時が止まったかのような静寂に支配された───事実、裁歌以外に動く者のいない孤独に静止した氷の世界を彼女は進む。香織の様に空中を飛翔することもせず、虚空に静止した無数の瓦礫の間を飛び移りながら今回の任務の渦中にある少女の傍で浮遊する氷塊へと降り立ちながら、少女は軽くため息を吐く。


あとは彼女を回収し、朱羽調整官の帰還を待つのみ。この駅の構造が予想通りなのであれば、これより下層に上層ほどの脅威があるとは思えない。共に落下していったレジスタンスの片割れだけが懸念ではあるが、あの男ならばさほど時間をかけることなく仕留めることだろう。あとは確保対象であったこの少女が異能で封鎖してしまった上層を突破するだけ───。



彼女が此処で敵を始末できたと考えたのは決して慢心ではない。


大規模な異能を行使することのできなかった朱羽亜門戦を例外として、彼女のこれまでの経歴において異能戦における敗北は一度しか無い。圧倒的な火力、彼女の持つ法則である『静止』を真っ向から打ち砕いた『流転』の炎を操る【狂乱の不死鳥】こと赫羽焔あかはねほむら。日本国最強の異能行使者を論ずるに当たり、猪狩りや人喰い鮫、傀儡奏者と並んで必ず名が上がる彼女への敗北は半ば必然であり、逆に言えば彼女は異能を前面に押し出した戦闘において敵を殺し損ねた事は皆無である。


故に彼女が確実に敵を───眼前に存在していた敵を葬り去ったと認識したのは純然たる自らの異能への正当な評価によるものであり、そしてそこに一切の驕りは無かった。


その自負が、過去の経験が、彼女が持つ最大の価値が、今砕かれる。


「やっぱり、そっちの目的もその子なんだ。」

「なっ────⁉︎」


彼女の耳朶を打ったのは先刻、息の根を文字通りに”止めた”はずの少女の声。それもそう遠い距離からの声ではなく、背後から囁かれたあり得るはずのないその声に彼女は振り返り───


「がっ……!」


その側頭部にて生じた強烈な衝撃による手痛い歓迎を受ける事となった。


脳を揺らされた事による吐き気とそれに伴い揺れる視界の中で目の前の空間が揺らぎ、そしてそれを追従するように彼女の前方の景色に微弱な乱れが生じる。それは紛れもなく、光学迷彩が一時的に中断された際に現れるノイズ。そのノイズは次第に人のシルエットを形成し、やがてそのシルエットは色彩を取り戻すことで一人の少女を形成した。


「……まぁ、こんなもんか。結構大事に使ってきたけどそろそろ寿命かな。」


機能を停止させた光学迷彩の名残のノイズが七色のスパークを放つ中、死んだはずの少女は一切の痛痒を見る者に感じさせない無傷の状態でそこにあった。


それを見た裁歌は驚きと共に少しでも距離を取ろうとおぼつかない足取りで後ずさる。理解できない、何が起こった───いや、なぜ何も起こっていない様に無傷のままで敵は此処にいるのか。鈍い痛みの走る側頭部を押さえながら目の前の存在が幻覚でもなんでもなく、実体を持ってそこにある現実だという事実に混乱しながらも彼女は叫ぶ。


「光学迷彩……⁉︎いや、それよりもあの状況から逃げ出せる筈が……。」

「最初から私は貴女と戦うことを選んでいない。最初から貴女から逃げていたんだから。」


その言葉を遮るように少女が手を翳せば、虚空から現れるは流動する液体金属。それは瞬く間に空中で少女と同じ容姿を型取り、鏡面の様に滑らかな表面が蠢くと共に肌や髪の質感や色彩までも瓜二つな偽物が少女の横に降り立つ。


魔神の亡骸セフィラ・ツリー。遥か太古にこの星で死亡した魔神の亡骸が分たれ、散逸した物。それらはいずれも例外なく魔神の権能の一部を司り、彼女の場合それは『創造』である。生命の木セフィロトにおいてはホドを示す8番目のセフィラであり、千変万化に流動する水銀はそのまま万物に流転する創造を司る。


デコイ……!」

「その通り。そしてやっぱり、その子は貴女達にとっても殺したくない……生捕りにしたい存在みたいだったから、その子には悪いけど盾にさせて貰った。」


裁歌達、日本政府からのエージェントの大凡の目的は先程の会話から把握済み。

奇しくも自分達と同じくこの神宿駅にいた経歴不明の少女を求め、この地にやってきている事を知った彼女は即座に光学迷彩を起動。能力で作り出した寸分違わぬ写し身を囮とし、自らは意識を失ったまま空中に固定された少女の近くで待ち伏せ、勝ちを確信した裁歌へとこうして意識外からの不意打ちを叩き込む事を目的に潜伏を開始した。


本来ならば氷界跋扈ニブルヘイムは法則の流出源である自らを除く射程距離内の全てを一切の予備動作なく凍結させる、防御の意味も退避のいとまも与えぬことを確約された絶死の攻撃。されど今回の任務においては殲滅対象外の存在がいる故に彼女は自らの腕による攻撃の指向を行わなくてはならなかった。


前方のみに効果範囲を絞られたその技はやはり、確保対象である少女の周囲には影響を及ぼしていない。彼女の不意打ちはこうして完全に成功したのだった。


(この流体金属、生命反応が……!?いや、それよりも光学迷彩で隠れている間、生命反応が私のデバイスでも感知できなかった!国防軍の特殊部隊レベルの装備をレジスタンスが何故……!)


「これ、くらいで……勝ったと……!」

「おとなしく寝てた方が良い。この距離でなら、私の方が強い。」


ふらつきながらも敵を睨みつける裁歌に対し、尚も油断を解かず周囲に水銀の盾を浮かべながら接近する香織。誰から見ても決着は明らかだった。小手先の異能による攻撃では通じず、相手に傷を負わせることが可能な大規模な異能の行使は確保対象をも巻き込む可能性がある。



────勝敗は決していた。


彼女等は知る由もないが、朱羽亜門のみが知る『原作』においても裁歌はここで敗れている。

彼女は序盤の敵、チュートリアル直後の噛ませ役としての敵であり、本来持ち得ていたはずの力を十全に発揮できずに敗れた愛されるネタキャラにして、誤解を解いた後は頼りになる味方でありながらも敵の内情に詳しいポジションとして主人公達と行動を共にする事となる……筈だった。


だが、この世界にはイレギュラーが存在している。

この世界を、大戦を、国家同士の争いすらも遊戯の駒として戯れる魔神よりも規格外の視座を持つ存在。この世界が、宇宙が、魔神含めた全ての存在が『創作物』であると信じる存在が、この世界には存在している。


戦略級の異能行使者の大半は自らの力量を広範囲殲滅において最大に発揮する。そしてその広範囲での殲滅を目的として運用されることの多い彼等は逆を言えば、広範囲での殲滅行動を封じられた場合を多くの場合想定していない。


だが、この場において。氷峰裁歌という戦略級の異能行使者はその例外として数えられる。

かつて朱羽亜門という男に接近戦で敗北した記憶、それを『あくまで模擬戦で広範囲での殲滅が封じられていたから』などと言い訳をしたくないという彼女の生来の生真面目さ。


その全てが今、明確な歯車の狂いとして結実する。




「私も貴女を傷つけたくな────⁉︎」


その言葉を遮る様に。否、断ち切るように。香織が己を守るために滞空させていた水銀の盾が真っ二つに切断される。通常ならば流体であるが故に即座に修復されるはずのその盾は凍りつき、流動することのない鈍重な金属として重々しい音と共に衝撃を響かせながら落下した。


「そうですか?」


斜めに振り抜いた裁歌の手の先には透き通るような氷の刃が握られており、もう片方の手には同じく氷で作成された氷の鞘。


「私は、少しでも貴女に苦しんでほしい。貴女が憐歌の部下だというのなら、きっとそれが彼奴の苦しみになるだろうから。」


咄嗟に伸ばした腕に刻まれた刀傷。その傷口から徐々に広がる氷の侵食による痛みに香織はその顔を歪め、眼前の少女が繰り出した一撃を看破する。


「抜刀術!?」

「そんな大した物ではありません。氷の滑りを利用しただけの小手先の技術と、刀身が伸びるただの氷の刀です。」


地面に片膝をついた状態から少女はゆっくりと立ち上がり、その体の随所───膝、肘、拳などに刺々しい氷の鎧を形成しながら透き通る刀の鋒を香織へと向けながら冷徹な色を浮かべた顔で静かに告げる。


堅潔氷鎧ヴァルキュリエ……!残念ながらこの距離"でも"、私の方が強い。」


体のふらつきをねじ伏せながら氷の鎧を纏って立つその姿は美しく、舞い散る細氷ダイヤモンド・ダストも相まって雪の妖精を思わせる。


「っ……!」


だが、それに対峙するように自らの凍りつきつつある左腕を躊躇なく切り落とした少女もまた、何かに殉ずるかのような荘厳さをその身に纏う。欠損した腕を流体金属で補い、周囲に無数の武具を飛翔させながら構えるその姿は臨戦体勢を告げるかのように広げた両翼が北欧神話において語られる戦乙女を彷彿とさせていた。


両者の間に沈黙が流れ、そしてその緊張が張り詰めたその刹那──────


わたくしを!」

「ぎゃっ!?」


水銀の戦乙女の口から蛙の潰れるような音が響くと同時、勢いよく岩壁へと吹き飛ばされ。


「勝手に!

「がっ……!?」


白銀の妖精が同じく横薙ぎに放たれた蹴りにより岩壁へとその身を叩きつけられる。


「景品にしないでくださいな!」


そして、虚空には勝者が一人残される。


彼女達は忘れていた。この場において最も近接戦闘に優れているのは香織でも裁歌でもなく、最も命が軽視される人類生存非適領域においてただ一人、誰よりも自由に己の決めた法則に則り生きる野生の女王である事を。


いつ如何なる時も同胞を守り、障害を己の拳で排除し、世界への感謝を忘れず、あらゆる嘘とは無縁に生きた彼女。掲げる標語は『力こそパワー』。


生誕、受肉より初めての異能の大規模行使により昏睡状態に陥っていた少女が右腕を掲げ、虚空を踏み締めて高らかに宣告する。


「私の!勝ち!」


どこかでK.O.を告げるゴングが鳴り響く音と、これまた遥か彼方のどこかの部屋で腹を抱えて爆笑する金髪の少女の声が聞こえたような気がした。

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