第26話 ありきたりで仕組まれた悲劇
神宿駅。神の宿る駅。この世界において神とは形なき物ではなく、肉と概念の身体をもってこの世界に干渉し得る魔神を指す故に、この駅もまた魔神に縁深き場所。
彼方の世界より飛来した魔神を葬るための墓所にして、因果と時空が巡る場所。だが其処に踏み入った者たちの末路を語る前に、今は一人の少女───氷峰裁歌について語ろうと思う。
雪の結晶が人の形を得たかのように儚い外見。ともすれば解けてしまいそうな初雪と見紛う程に華奢な体躯に銀糸のような髪は彼女を深窓の令嬢の如くに見せていたが、彼女の経歴を紐解く限りはそのような印象は妄言として切り捨てられることだろう。
戦後勃発した旧ロシア共産連合体の軍部の残党による武装蜂起を初陣にて鎮圧。この戦い───否、虐殺での”負傷者”は皆無。兵卒から指導者、その地に生きる悉くの生を静止させた末に虐殺は数秒で完遂された。
その容姿のままにあらゆるものを凍て付かせる異能と、その能力とは対極を為す異様な程の苛烈さで国家の敵を悉く撃滅する様から与えられた
事実、彼女は恐れていた。彼女は怯えていた。己が国家という巨大で貪欲な怪物の細胞でしかないという事実に怯え続けていた。
彼女の生家、氷峰家は戦前においても旧家の流れを汲む地域の有力者であり、それは超常がこの世界に侵食してきた事により拍車がかかる。
長女、
勝利、勝利、勝利。
新聞を彩る国外へ派遣された『国防軍』の快進撃を褒め称える美辞麗句で埋め尽くされた記事の中に、いつでも彼女はその凛々しい顔の写真と共に存在していた。
いつしか国民的英雄として持て囃された彼女は特進に次ぐ特進を繰り返し、そしてその栄華の締めくくりとして数年に及ぶ北米戦線の幕を引くためにホワイトハウスの位置するワシントンを包囲したとの報は太平洋を挟んで遠く日本の氷峰家にまで届く。
裁歌にとって姉は理想だった。
強く、美しく、物心ついた時から凡ゆる人間が彼女を褒め称えていたのだから無理もないし、実際彼女は深く姉を尊敬していた。
『貴女もお姉ちゃんのようになりなさい。』
いつも両親から投げかけられるその言葉は彼女にとって重圧ではなかった。むしろその言葉はいつか己が一人前になった時に姉と同じ視座に立つ為のカンフル剤であったし、彼女は程なくして姉と遜色ない規模の異能を発現させた。
国民の誰もが知る英雄を輩出した氷峰家の安泰は約束されていたも同然だった。異能だけではなく戦術面でも類稀な才能を発揮した姉は国威高揚の意味もあったが准将にまで上り詰め、氷峰家と彼女は幸せの絶頂にあった。
戦争が終わったら、姉とたくさんの話をしよう。
数年に渡って画面の先、新聞の中、プロパガンダの漫画の中にしか居なかった姉の不在を埋めるだけの話をしよう。
そんな思いは、幸福の絶頂は、訪れた一報により崩れ落ちる事となる。
──────氷峰准将、乱心。
北米大陸方面軍は功を焦った氷峰准将により起動された新兵器の暴発により、北米大陸の8割を消失させると共に同盟国たるアメリカ太平洋共和国共々に壊滅したというその荒唐無稽な────そして、余りにも荒唐無稽なその内容を国家が公表したという事実により真実として認定された報せを彼女は姉の死亡報告と共に受け取った。
意味が分からなかった。何故、何故、何故?何故、そんな事をする必要があったのか。いや、それよりもあの姉がそんな事をする筈が─────!
そんな希望も政府が即日公開した“証拠”により、打ち砕かれる事となる。
『貸せッ……!これ以上は待てん、ワシントンごと吹き飛ばす!』
『しかし准将! 未だ友軍が…! それにこの新兵器は研究途中のものです! 使用には本国の許可が必要で……!』
『知ったことか!これ以上長引いてみろ、私の評価に傷がつくだろうが!』
雑音交じりのその音声は確かに姉のものだった。
姉が一度も見せることのなかった醜い虚栄心に、傲慢さに満ち溢れたその声はあまりにも彼女が知る姉の姿とはかけ離れていて。
確かに今の技術ならば音声なぞ容易く改竄できる。
メディアに多く出演していた姉の声のサンプルならば腐る程あるだろう。だが、この状況で政府が嘘をつく理由が見当たらない。
こんな荒唐無稽な、護国の英雄とすら称された姉が我欲の為に多くの将兵と国を消し飛ばした等という余りにも悪趣味な冗談の様なその話が、大真面目に語られている事が何よりの証拠である様に思えた。
いや、それよりも。彼女は恐れたのだ。これ以上国家に逆らう事を、“国を疑う”という事を。罪人となった姉を持ちながら、これ以上に政府を疑うという大罪を犯す事を恐れたのだ。
それに敗戦直前から日本を立て直し、この大戦の覇者へと押し上げた今の政府を疑うことなどあり得なかった。
氷峰家は全ての資産を手放した。
土地、保有していた会社、株、銀行口座、その全ては北米大陸方面軍の遺族への補填に宛てられた。
父は自らその命を絶った。
けじめとして、そして氷峰家としての謝意を示す為に白昼堂々にその腹を小太刀で十字に掻っ捌き、介錯を付ける事もなく余りにも時代錯誤な────壮絶な最期を遂げた。
母は心を病んだ。
連日家に押し寄せる報道陣に、遺族達の糾弾に、雪の様に儚い女は耐えることが出来なかった。
『すごいねぇ、すごいねぇ……ほら、お姉ちゃんを見習いなさいな……。』
力無く座り込み、過去の絶頂の記憶を脳内で
彼女は────今や稀代の大犯罪者を輩出した氷峰家の当主となった彼女に残っているものは己の身体だけであった。そして幸いにもその身体には価値があった。
規格外の規模の氷を操る異能。戦略級の異能行使者として彼女は法務省に価値を見出され、新設された【異能調整局】に配属される事となり、かつての姉をなぞる様に彼女は世界中でその名と苛烈さを轟かせた。
秩序に背くは悪である。
国に反するは憎悪すべき大罪である。
姉が殺した分だけ、国に貢献しなくてはならない。
これ以上の罪を重ねる訳にはいかないのだから。己の欲に走った姉は悪で、そのドロドロとした欲を誰に見せることも無くその腹で育て続けた大罪人なのだから。
汚名を振り切る様に、贖う様に、戦う度に姉と己が重なる。それが嫌で、汚らわしくて、赦される為に戦い抜いて──────
『氷峰調整官。君の姉君、存命の様だよ。』
『………え。』
『どうやら生き残っていた様だねぇ。死亡扱いだった何人かの国防軍の幹部と共に反政府活動に勤しんでいるらしい。いやはや、あの北米大陸消失事件は彼等との共謀の上だったのかな?……おーい、聞こえているかな。ハンカチ要るかね?』
何処かで信じていた自分がいた事に怒りを覚えた。
姉がそんな事をするわけが無いと、未だに信じていた幼い己に軽蔑を覚えた。
これが現実だ。姉は汚名を晴らす訳でもなく、答え合わせの様に罪を重ね続けている。亡霊の様に、己が清算しようとする過去に汚濁を塗りつけている。
『彼女等はレジスタンスと名乗っているようでね。南米やらデリー条約機構やらで反日武装組織を支援して────』
秩序に従え、疑うな、猜疑するな。
悪を許すな、法に反する者を許すな────姉を、許すな。
だって、それしか私に価値は無いのだから。
この国のために尽くす事だけが、姉の道を否定する事だけが、己が反逆者でも罪人でもない事を示す事でしか価値を示せないのだから。
だから誰よりも強くなくてはならない。
だから誰よりも勤勉でなくてはならない。
誰よりも、誰よりも、誰よりも、この国に忠実でなくてはならない。
そんな張り詰めた彼女が異能を持たず、さりとて敗北を知らぬ朱羽亜門というイレギュラーに敵意を向けない訳もなく。敵視の果てに仕掛けた戦いの果てに彼女は、答えを得る。
「やっぱり、私は間違えていなかったんだ。」
勝利に飢える余りに周囲も碌に見えていなかった己へと完膚なきまでの敗北を叩き込んだ彼は頂を示してくれた。
忠実に、勤勉に、反逆者を許さずに。弛まず歩めば、強くなれる、迷いなく強くあれる。たとえ異能がなくとも、それはきっとこの国で眩いほどの価値だから───────
◆
荒れ狂う氷結の波動が床を崩壊させ、その先の地下に広がる巨大な虚空が全てを呑み込まんと大口を開けて待ち構えていた。
「爺ッ!」
紫の瞳を持つ少女が悲痛な叫びと共にその崩落に飲み込まれんとする自らの家族達へと手を伸ばし、異能を解き放つ。その瞬間、彼女の周囲の瓦礫と氷が瞬く間に銀塊へと変ずると共にその形を流動させ、瞬時に更に崩壊しつつあった床の亀裂を埋める形で補強する事となる。
金継ぎのように銀が広大な階層そのものを崩落させんとしていた亀裂を繋ぎ止めていくその様子を彼女は見上げながら微かに笑う。
この規模で己の力を行使した事はなかった。
何かが自分から抜け去った様な感覚。その何かの源が己の中にある事は感じるが、それが再び身体を満たすまでには時間がかかる事だろう。
強き者が弱者を守るという彼女なりの野生の摂理に殉じるべく、彼女は己の身を守るよりも先に自らの同胞を守るべくその力を振るった。
そこに迷いはなく、今此処で大地にその身が叩きつけられ命を落とす事になったとしても悔いはない。生きるとは、そういう事なのだから。
己の決めた法の為に、己が感じるがままに感じた世界の為に、彼女は生きている。ならばそれを守るために死ぬ事になんの迷いがあろう事か。
紫陽花は何を気負う事もなく、その目を閉じ─────
少女、氷峰裁歌の怒りの発露は直ぐに収まった。否、広がる惨劇を前に収まらずにはいられなかった。一時の感情により引き起こした異能の過剰放出は憎きレジスタンスのみならず、確保対象たる少女と己の同僚すらも巻き込んでいた。
「………!」
確保対象の少女がこの落下状況から自力で生還する能力を持つ保証もない。だが、朱羽調整官も反重力機構が搭載されているとはいえレジスタンスの構成員と共に落下する危険性もある。
迷いの中、彼女は己の同僚へと視線を向け─────
「(コクリ)」
いつもと変わらぬ無表情のまま、此方に頷きを返す無能無敗の姿を見る。嗚呼、何と頼もしき事か。少女は一度でも己の同僚の力を疑った己の不覚に唇を噛み締め、即座にその身を同じく落下しつつある少女、紫陽花へと向け直した。
「えっ。」
誰かが溢した声は落下に伴う轟音の中でかき消され、そして彼女は再び己の異能を解き放つ。
怒りのままではなく、凍てつく様に冷静に。
繊細に、精密に、己の中から流れ出すこの世界の理を否定する法則を手繰り寄せ、彼女は叫ぶ。
「“止まれ”ッッッッ!」
刹那、あらゆる慣性を無視して虚空に静止する両者。己の体と確保対象たる少女の身体を落下する周囲の瓦礫諸共に空中に固定した氷峰は極寒の空間の中で落下していく己の同僚と桃色の髪の少女を視界の端に捉え─────
そして、己の背後に白銀の両翼を広げて飛ぶ少女へと冷たい視線を向けた。
「……自殺願望ですか。」
「まさか。」
白銀の大剣を片手に空中を踏み締めるその姿は
「貴女を……レジスタンスに連れて行く。」
「────あ"?」
「う、動かないで!」
これ程までに手に持つ水晶の剣が頼りなく感じた事はない。少女は震える手で汗に滑る剣を握り直す。
少女の眼前に立つは黒衣の男。一度、二人がかりでも完敗を喫したその敵は何をするでもなく、ただ此方を見つめていた。
底の見えない沈み込んでしまいそうな程に真っ黒な瞳からはあらゆる感情を見て取れず、少女は恐怖と戦いながら打開策を頭に巡らせる。
何かしらの原因で香織と逸れた場合は最下層にあるレジスタンス側が確保した神宿駅へのポータルに集結する事が事前に取り決められていた。だが、この空間は彼女の知る最下層とは異なっている。
壁を覆うは脈打つように光を明滅させる鉱石達。
上方に開けている巨大な虚空からは自分たちが落ちてきたはずの上層の光すら見えはしない。
最下層に広がっている筈の無限にタイル張りの床と無意味な言葉の羅列だけが犇めく看板が張り巡らされた領域とは似ても似つかぬ未知の世界。
そこに己の初陣で同時に初めての敗北を叩き込んだ存在と二人っきりで居る。相手は日本の誇るキリングマシーンで、彼女の友人たる香織の師匠を惨殺した殺人兵器。間違いなく、一切の容赦なく此方の命を刈り取ってくる相手。
彼女は緊張でカラカラに渇いた喉で唾を飲み込み、先手を打たんとその足に力を込めようとした刹那。
「……取引をしないか、羽曳春音。」
「え……?」
思いがけない一言に少女は耳を疑う結果となるのだった。
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