【幕間】 不死鳥の朝
日本に住む逸般的な女の子の朝の場面です。ちょっと短め。
まぁ彼女の年齢を考慮すればそれも致し方ないのだが、低血圧という体質も合わさって非常に彼女にとっての朝は辛い物となっていた。
「ふぁ…ぁ……」
ファンシーなキャラクターがプリントされたパジャマを纏った手で、法務省の上級スタッフに支給されるホログラムデバイスへと触れる。
彼女の指紋を読み取り、天秤の背後に配置された交差する剣のエンブレムが一瞬回転すれば、虚空へと映し出されるデジタル時計。
8:30という時間を見て、人々が抱く感想は多々あるだろう。
だが本日が平日であり、更に言えば彼女が国家機関の一つを任されている公務員となれば必然的に『遅刻』という単語が踊る訳なのである。
だが、寝起きのぽやぽやとした彼女の頭にはそんな単語は浮かんで来なかった様だ。
いつもは勝ち気に吊り上げられた眦はとろりと垂れ下がり、ツインテールに結ばれている彼女のトレードマークとも言える真紅の髪は、見事に前衛的なアートを寝癖という形で表現している。今の彼女を見て『狂乱の不死鳥』という二つ名を連想する人間は居ないだろう。
ゆっくりと上体を起こし、東京の街を俯瞰できる大窓へと掛けられたシャッターから覗く朝日に眩しげな表情を浮かべる。
自身の体温が残る毛布を名残惜しげに離脱すれば、ベッドの端へと腰掛ける。
未だに彼女の脳はふわふわとした眠りの名残に取り残されており、シャッターを開けるという考えすらも上がってこない様だ。
その美しい真紅の髪を肩に流し、普段はきりりと引き締められた顔を眠たげに擦る焔。
彼女が自力で再起動を果たし、朝の活動へと移行する迄には悠久の時が必要なのではないかと思われた頃、コンコンコンと彼女のドアをノックする音が部屋へと響き渡る。
「課長ー?赫羽課長ー?起きておられますかー?」
半分閉じられた瞼から覗く赤い眼がドアを見やれば、聞こえてくる溌剌とした声。
だが、未だに覚醒していない彼女の口からは意味のある言葉が発せられる事はない。よしんば彼女が意味のある言葉だと思っていたとしても、寝ぼけた彼女はそれを言語としての形で話す事は出来ないだろう。
「入りますよー?失礼しまーす……」
カチャリとドアが開けられる音と共に、壁に備え付けられた端末が操作される微かな電子音。
それと共に、この閉ざされた部屋へと太陽の光が漸く招き入れられる事となった。
陽の光を浴びた吸血鬼が如く声にならない呻き声をあげる彼女へと、呆れた様な顔で歩み寄る少女。
その全身を法務省の制服で一分の乱れもなくかっちりと包み、太陽の光を眩しく反射する銀髪を綺麗に整えヘアゴムで一括りにまとめた少女は、不遜にも夢の続きへと参らんとする少女の華奢な肩を軽く揺する事で強制的に覚醒へと導こうとするも、未だにその眼はとろんとした眠気を隠そうともしない。
「全く……起きてください、課長!朝ですよ!」
毛布で熟成された焔の体温が未だに残るパジャマの背中へと少女が指を向ければ、ふわりと踊るダイヤモンドダスト。一瞬で空気の熱を奪う事で発生した一陣の冷風が彼女の背中を一撫でし、そのぽわぽわとした頭へとダイレクトに冷たさを伝える。
それは焔の頭の中で張った眠気のベールを一瞬にして剥ぎ取り、彼女を突然の刺激への驚愕と共に完全に覚醒させるには十分な冷気であった。
「ぴゃっ!」
珍妙な声を上げ、その赤い眼を見開きながら軽く飛び上がる焔を笑顔で見やる少女へと、焔は何かを責める様な目で見つめる。
「……おはよう、
「おはようございます、課長。しかし此処までしないと大抵の場合お目覚めになられないので……」
氷峰と呼ばれた少女は、その細い指を頬に添えながら申し訳なさそうに笑う。
それを尻目に大きな欠伸を一つした焔はベッドからゆっくり降り、フローリングの床へとその幼さを感じさせる細い脚を下ろす。
夜の間に冷えた床の感触に身震いをしながら、彼女がペタペタと素足が床と触れ合う音を響かせながら向かうは台所。
「氷峰ー、貴女もう朝ご飯は食べたの?」
「いえ、職務の途中に
制服の胸ポケットから取り出された、葡萄のイラストが描かれた小さなケースをカラカラと振る彼女へと背を向けながら、焔はその小さな身体を精一杯伸ばす。戸棚から取り出されるはフライパン。上級スタッフの部屋という事もあり、彼女は食用3Dプリンターだけではなく『調理』用の機器の付いたキッチンを支給されている。
冷蔵庫のドアを開け、慎重な手つきで取り出された物を見て銀髪の少女は軽く息を呑んだ。
その手に握られていたのは二つの形の良い卵。殻に刻印された『甲金フーズ・プレミアム』の金文字が物語る事が本当だとすれば、この卵は同質量の黄金と同じ価値を持つだろう。
大抵の食物がクローン技術と高度に発達したプリンター技術によって埋め尽くされた今、完全なる天然物の食材というのは一部の特権階級の食す珍味と化している。
如何に法務省異能調整局最強の異能保持者と謳われる彼女とて、食費に此処まで金を割ける程に湯水の様に金を使えるわけでは無い。では一体、と首を傾げる氷峰に年相応の得意げな表情を浮かべながら焔がフライパンをIHヒーターの上へと安置する。
「農林水産省の奴等よ。前にアフリカでの強制緑化措置に補助要員として参加した時、現地の異能保持者を執行してあげた御礼だって言って幾つか送ってきたのよ。流石にハムは培養肉使うけど、目玉焼き作ってあげる。一切私の懐は痛んじゃ居ないんだから食べていきなさい。」
成る程、と合点がいったように頷く氷峰。確かに日本の、いや。いまや世界の食糧事情を左右できる機関たる彼等ならば天然の卵をほいほいと配る事も可能だろう。だが、そうすれば他の疑問が頭をよぎる。
「あのー、課長?」
「何よ?」
「料理、出来るんですか?」
フライパンを見てみれば、凹みなども見当たらぬ新品同然の品物。氷峰は実家で多少の調理の経験があるが、目の前の少女に調理の経験はあるのだろうか。
ぱちくりとその赤い眼を瞬かせ、ふむ。と腕を組み考え込む焔。
数秒の沈黙の後、笑顔で顔を上げた彼女は指先に小さな炎を灯しながら答える。
「何かよくわからないけど、目玉『焼き』なんだからいっぱい焼けば良いんでしょ?」
「課長は着替えてください!調理は経験が有るので私がキッチンに立ちます!」
暫くは抵抗の姿勢を向けた焔であったがそもそも卵の殻を割れるのかという根本的な問題が浮上し、渋々とクローゼットのある部屋へと向かう事となった。
それから数分後。白磁の皿に乗せられ、配膳される黄金の煌めきを太陽光に反射させる卵の黄身を薄く白身で覆った卵の下にはカリカリに焼き上げられたハム。横には焼かれた薄い黄緑のパンが添えられ、見る者の食欲を誘う香りを周囲へと撒き散らしていた。
小柄な彼女専用に設られた法務省の制服に身を包み、その眼をキラキラと輝かせる焔がフォークを握りしめながら氷峰へと羨望の眼差しを向ける。
「氷峰調整官。」
「はい、なんでしょう。」
「課長命令よ。いつか私に料理を教える様に」
少し自慢げに胸を張る少女へと振られる無邪気な命令。クスリと笑った氷峰は恭しく頭を下げる。
「氷峰調整官、謹んで拝命致します!」
和やかに法務省異能調整官達の朝餉が始まる。
朝日が照らし出すビル群を縫う様に舞うドローンと、今日も今日とて仕事へと向かう為に交通機関へと乗り込む無数の三等市民達。
彼等が一生口にする事のない様なご馳走───まぁ味を培養のそれではないと感じられるほどに両者の舌は肥えていなかったが───を口にしながら、彼女達は談笑する。嗚呼、今日は良い一日になりそうだ。明日も、明後日も。永遠に繁栄は陰る事なく、理想郷は美しく栄える事だろう。氷結地獄と狂乱の不死鳥の朝はゆるりと過ぎていくのだった。
結局共々遅刻したのだが、異常なまでに上機嫌な局長からのお咎めは無かった。
この後幸せな気分で執務室へと向かった彼女を、JDACSが送信した凄まじい量の書類が待ち受けていることを彼女は知る由もない。
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