桜の木
私の家の裏にある広い湖の畔には、大きい大きい桜の木が、一本、悠々と育っていました。
春になると花びらを舞い散らせ、辺り一面を彩りました。青いキャンバスに映ゆる桜の大木に、町行く人々も足を止め、感嘆の声をあげました。
夏になると葉桜の下が人々の憩いの場になります。夏の、鋭く突き刺すような日差しも優しくなり、湖から吹く風が汗ばんだ肌を撫でていきます。根元には湖で遊ぶ子供達の鞄が並べられ、休日には多くの家族で賑わいました。
秋には紅葉した葉が紺青の空とコントラストが沈思的で、夏の夕暮れを目一杯吸い込んだ様な紅色は、夏の終わり、冬の訪れを知らせてくれている様でした。桜の木は大木ですから、落ち葉も多く。清掃行事として子供達が集めた落ち葉の山には火を付け、美味しい焼き芋を作るのでした。
冬枯れをした桜は哀愁を漂わせますが、一度雪が降りしきると桜の木は白粉を塗り、雲の合間から差し込んだ陽の光にキラキラと輝くのでした。雪が溶けると大きく膨らんだ蕾が春に開くのを今か今かと待ち望んでいる様でした。
ある日、カラス達が言いました。
「大きな桜の木さん。私達の巣を作ってもいいですか?」
桜の木は何も言わず、ただそこに佇むだけでした。
いつの日からか、大きな桜の木にはカラスが群がる様になりました。人々は言いました。
「私達の美しい桜の木にカラスが群がってしまって気味が悪い。」
「どうやらカラスが巣を作ったらしい。」
「それなら駆除しなくちゃいけませんね。」
そうして、カラスの卵の入った巣は大きな桜の木から落とされてしまいました。桜の木は何も言わず、ただそこに佇むだけでした。
桜の木は、ずっとずっと昔からこの地を見守ってきました。だから、鳥が自分に巣を作ろうとすることも、人が独占欲を持っていること、戦や自然災害の恐ろしさは理解していました。それを理解した上で桜の木はこの土地を見守っていました。
ある日、大きな桜の木の元に、少女が一人やってきました。
「桜の木さん。どうか登ることをお許しください。」
桜の木は何も言わず、ただそこに佇むだけでした。
少女は桜の木の枝に座り込むと小さな声で話しました。
「桜の木さん。私、死のうと思うんです。ここから首を吊って……。」
すると風が吹き、葉がざわめいた。少女には桜の木が「なぜ死ぬんです?」と聞いている様に感じた。
「私、自分のことが酷く憎いんです。それにこの世界からもう逃げ出したくって。だから死にたいんです。それにもう、怖くて下には降りられませんからね。」
少女は紐を桜の枝に括り付けると輪を作り、桜の木に言った。
「私、覚悟も勇気も足りないんです。だから、背中を押してください。」
一陣の風が吹いた。桜の木は黙って、ただそこに佇むだけでした。
人々は言いました。
「あの桜の木は呪われてる。」
「カラスが群がってたのもそのせいよ!」
さまざまな意見が飛び交ったものの、最終的には桜の木を切り倒し燃やすことになりました。
桜の木が倒される前日、季節外れの夜桜が咲き乱れました。その妖艶な桜の木を私は鮮明に覚えています。
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