第30話 進み始めた日常

「あぁ~……最高だぁ」


 久しぶりに浸かる湯船。ベルバーグには天然温泉が湧き出しているようで、少し緑かかった湯はほんのりと硫黄の匂いがする。理想をいえば、この匂いがハーブのように爽やかなものであれば良かったが、それは贅沢というものか。しかしそれにしても、風呂がこれ程に気持ちよかったとは。

 死刑され、審議され、砂まみれになり、汗だくになり、ろくな食事もとらずに重労働をして竜と決闘をする。僅か2、3日で経験する人生としては、些か濃厚すぎたというものだ。

 そんな泥臭い人生を清めるように、暖かい風呂が俺の体を揉みほぐしてくれる。同時に100人ほどが入れる大浴場を貸し切りにしているってのもまた、心が解放的になるな。


 男の入浴は3日に1度。本来なら明日の夜まで入れなかった。血の雨を被った時はこのまま1日過ごすのかと思ったが、これは決闘を生き延びた褒美だな。


(……そうか。俺は何とか生き延びることができたのか)


 少し前に終わったばかりなのに、昔の思い出のようにふけている。不思議なものだ。始まる前はあれだけビビっていたのに、終わった途端にこの落ち着きである。

 何はともあれ、竜族ドラゴニックとの因縁を乗り越えることができた。ここからようやく、まともな生活をスタートできるのだ。まともな監獄生活をな。


(まぁ囚人なことには変わらないし、ひとまず今後の目標はどうするか)


 何を優先して生きていくか。魔力を使い脱獄することだって頭に過らないわけではないが、外の世界がどうなっているか知識が無さすぎる。そもそもナターリアがいる以上、脱獄を考えるのは無謀に等しい。あんな強さを見せつけられては、囚人が束になってもなす術なんてないさ。

 ひとまずは生活を安定させることが当面の目標だ。今は金もないし、金がなければまともな飯にもありつけない。刑務作業をこなし、快適な衣食住を確立しなければ。


(そういえば露店には衣服も売っていた。殆どの囚人が決まった囚人服を着ているってことは、相当に高いのだろうがな。散髪屋などもあるのだろうか? この伸びきった髪と髭をなんとかしたいな)


 次にやりたいことを考えだすと、案外楽しいものである。ニートで引きこもっていた時は、毎日が同じで次なんて考えたことはなかった。

 スタートからここまでは最悪な異世界転生だったが、最悪だからこそ、少しの進歩が気持ちを高めてくれるのだ。


 気持ちのリセットができると、風呂から出て服を着る。浴場の外にある椅子に腰かけると、ぐっと背筋を伸ばし首の骨を鳴らす。すっかり晴れた気持ちになった俺は、ルーリエとシャルディネが風呂から出てくるのを待つことにした。


 風呂から出て20分ぐらい過ぎただろうか。なかなか出てこないルーリエ達を待っていると、疲れた体に睡魔が襲いかかる。少しウトウトしてきた時、大声で俺の名前を呼ぶ声が聞こえると、何かが土煙をあげて走ってきた。


「オォルディィィーー!!」


 途轍もない勢いで何かが俺にぶつかると、そのまま数メートル後方に転げ回る。体は何度も激しく地面に叩きつけられるが、何故か顔だけは柔らかな感触に包まれていた。


「オルディ生きてるぅー!! 凄いじゃん!! 総監様に決闘勝ったって聞いたよぉーー!!」


 俺に抱きついてきたのは、まだ酒臭さが残るミルクであった。足はタコのように絡みつかせ、豊満で糞柔らかい胸を俺の顔に押しつける。ミルクは気づいているだろうか。突起物が俺の口元を何度もいったりきたりして、その気になればいつでも吸いつくことができることに。

 いや、実はそんな状況を楽しんでいるのか。チラッと見えたミルクの顔は、いやらしく口元をニヤつかせ、俺の口元に擦れる感覚で涎まで垂らしている。

 窒息死しそうなほど容赦なく押しつけてくるが、このまま死ぬのも悔いはない。あぁ……これは最高のご褒美である。


「ミルク。オルディの顔が気持ち悪くなっているよ。そのくらいでやめておきな」


 遅れて現れたヨンヘルがニヤけ顔に釘を刺す。性欲がない彼にとって、俺の顔はとても不快だったのだろう。

 それにしても気持ち悪いとはなにか。何度でも言うが、俺は健全な男なんだよ。規律がなければ、躊躇うことなくこの誘惑に飛び込むってものだ。それでも規律があるから、必死に気持ちを制御しているのだぞ?

 そんな独り言を頭で考えていると、ミルクは俺の体を抱き締めたまま「だってぇ、生きててくれて嬉しいんだもぉん」っと素敵な言葉をヨンヘルに言い返す。

 いかんいかん。ルーリエに心を誓ったはずなのに、ミルクの純情な想いに心を揺さぶられる。ふっ、モテる男ってのは辛いものだな。


「……何やってるの? 気持ち悪いんだけど。死ね」


 ごめんなさい。やらかしましたね。

 気づけば風呂から出てきたルーリエとシャルディネが、俺を蔑む目で見つめていた。それにしても死ねって、いつも以上に冷たくないですか。

 ルーリエは頬をひきつらせたまま俺の顔を踏みつける。ミルクはささっと俺から離れると、知らん顔で天井を見上げていた。


「おやおや。ルーリエも随分とオルディが気に入ったみたいだね。そんな嫉妬心を撒き散らすなんて、初めて見たよ」

「なっなっ! し、嫉妬なんかじゃないわよ!!」


 ヨンヘルがルーリエをからかっているが、確かに嫉妬だったら嬉しいものだ。ルーリエの頬を若干赤くなっているし、案外俺に惚れてきたのかも?

 と、馬鹿な考えに自惚れたいところではあるが、このままでは俺の顔が陥没してしまう。


「あ……のぉ。足を、どけて、くれませんか?」


 押し潰されてアヒル口になっている俺は、魚のように口をパクパクさせながら助けを求める。そんな姿にヨンヘルが笑いを溢すと、それは周りに伝染して笑顔に包まれた。


「それにしても、良く勝ったね。俺とミルクは絶対に生きて帰ってこないと思っていた。素直に君達を讃えるよ」

「まぁ、ほとんどがルーリエの実力のお陰だけどな。妖精族エルフィなのに【剣聖】なんて称号を持っているなんて。ヨンヘルは知っていたのか? 知っていたなら、もっと早く教えといてくれよ」


 ヨンヘルに手を引かれて起き上がると、体についた埃を軽く払う。ルーリエの活躍を皆に話そうとすると、ミルクは首を傾げて割り込んできた。


妖精族エルフィなのにぃ? 妖精族エルフィだからでしょ? 妖精族エルフィは剣技に卓越した戦闘種族だよぉ。その中でもルーちゃんは超天才って呼ばれてるからねぇ」

「ミルクやめなさい。オルディは記憶がないんだし、分からないのは当たり前でしょ。それに私はまだまだひよっこの剣聖。久しぶりに刀を使ったけど、自分の劣り具合にはがっかりよ。これじゃあ剣帝や剣神には遠くおよばないわ」

「あっ! やっぱり武器を使ったんだぁ! どこで手に入れたのぉ? 今はどこにあるのぉ?」


 ミルクの怒涛の質問責めに、ルーリエはタジタジである。刀が空から降ってきたことだけを話すと、ミルクは頭にハテナマークを浮かべながら首を傾げていた。

 それにしても、この世界の妖精族エルフィってのは、俺がイメージするものとは少し違うようだな。それに【剣帝】か。剣の称号がいくつあるのか分からないが、ナターリアの技は確かに次元が違った。ルーリエが使ったのと同じ技だったとは思うが、あんなもの剣技というより兵器だ。1人でも国を滅ぼすくらい容易いのではないだろうか。流石にベルバーグの権限を一任されるだけのことはある。


「そうだ、オルディに渡しておかないとね」


 ヨンヘルが小さな袋を渡してきた。小さい割にはずっしりと重たい小袋だ。その中を見ると、銀貨が6枚。銅貨が4枚。鉄貨が5枚。刑務作業で手に入れた銅貨3枚と比べたら、目の眩む大金であった。


「──なっ! なんだよこの大金?!」

「それは賭けの勝利金だよ。決闘の前に、ゼルを全額自分に賭けていたじゃないか。君に賭ける人がいなかったからね。倍率がとんでもないことになっていたんだよ。170ゼルが、一瞬で6500ゼルさ」


 確かにそんなことを言った覚えがあるな。あの時はただの意地というか、何とも棚ぼたである。この金があれば、当面は食いぶちに困らない。それどころか、露店で必要な物を物色することもできそうだ。

 でも6500ゼルって、微妙に足りてないぞ。


「あぁ、そうそう。水の代金50ゼルはそこから引かせてもらったよ」

「……本当に50ゼル取るんだな」


 俺とヨンヘルのやり取りに、ルーリエがクスッと笑いを溢す。それがきっかけで再び皆が笑いに包まれると、ようやく生き延びたという実感がわいてきた。

 まだ完全に仲間と割りきれるほどの信頼関係はないが、俺はヨンヘルもミルクも決して嫌いではない。冷たい時がほとんどであるが、勿論ルーリエのことは言うまでもないだろう。

 こいつらのことを真の仲間と呼べる日がくるのか。それはまだ分からないが、そう呼んでもらえるかは俺次第である。


 ここまでの数日。とても短いのに、途轍もなく長く感じた。そして、ここから更に長い日常が始まるんだ。

 苦難はまだまだあるだろうが、俺はここで生まれ変わる。自らに誓った母のためにも。



 第1章 『囚人』完結

 Next第2章 『日常』

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