第25話 起死回生の勇気

(怖い……怖い……怖い……)


 目の前には明確な死が存在する。

 争いや戦いなど知らず、平和な日本という国で平凡に生きてきた俺にとって、それは感じたことのない恐怖。体は奥底から震えあがり、死の感覚で瞳孔が大きく開ききっている。


(やばい……動かないと)


 硬直しかけた体に無理やり司令を送る。このまま立ち尽くせば、確実に死神が俺に鎌を振り落とす。

 この状況で何ができるか。掴まれた右手を強引に振りほどく力は俺にない。左手で攻撃しようにも、左足が前に出ているから強く振りかぶることができない。それだったら、不細工なりにも右足を振り抜いて攻撃しなければ。


「くっそがぁぁ!」


 左足を軸に、腰を回してジャージェの脇腹を狙う。後手になったら、竜族ドラゴニックの攻撃を防ぐ自信はまったくない。渾身の力を込めた俺の蹴りがジャージェに通じるか、そこに願いをかけた。

 しかし、軟弱な俺の蹴りがそんな都合良く展開を打破してくれるはずはない。ジャージェは空いていた右手で、いとも簡単に蹴りを止めた。

 すると、そこで圧倒的な力の差に気づいたのだろう。ジャージェは得意気に口を緩ませる。怒りで赤く染め始めていた瞳を元の黒色に落ち着かせると、激しく高笑いをして罵倒し始めた。


「やはりそうか!! 人族ヒューマンが実力でラグディア公爵様を殺せるはずがないのだ。貴様は何か卑怯な手を使ったのだろう? そうでなければ、これほど弱いはずがない。こんな程度の奴に怒りを覚えたとは、俺もまだまだ若いな」


 威勢良く好き勝手に言い始めたが、反論の余地はない。悔しさに歯を軋ませると、次の瞬間、目の前の視界が歪む。


「オルディ!!」


 ルーリエの声が聞こえた気がした。だが、それを確認する前に俺の体は自由を失う。

 視点はでんぐり返しのように激しく乱れ、背中にドゴッと鈍い音が響く。そこでようやく鋭い激痛が身体中を巡ると、みぞおちを殴られた時のように呼吸が止まり、あまりの苦しみに地べたで踞る。

 霞む視界でジャージェの位置を確認すると、先ほどまで目の前にいたはずが、数メートルほど離れた場所で立っていた。得意気に尾を泳がせているところを見ると、どうやら尾で強烈な凪払いを繰り出し、直撃した俺が壁まで吹き飛んだようだ。


 震えながら何とか体を起こすと、背中に悲鳴があがる。壁に激しく叩きつけられたようで、骨が折れているのではと錯覚するほどの痛みだ。体を起こせたということは、実際に骨が折れていることはなさそうだが、こんな苦しみは初めて味わう。

 だが、これはむしろ幸運だったと考えるべきかもしれない。これが背中じゃなく顔面だったら、そう思うとゾッとする。


「そうだ。これくらいで死なれては何も面白くない。もっと存分に苦しませてやらなければな」


 ジャージェがゆっくりと近づいてくる。早く何とかしないと。そんな焦る気持ちに反し、体はいうことをきかない。膝に手をついて上半身を支えるだけで限界なのだ。こんなことならば、子供の頃に習っていた空手をもう少し真面目にやっていれば良かった。何とも悔やまれる最後である。

 半ば諦めかけていた。いっそ、死んでしまえば楽になれるのでは。そんな気持ちが芽生え始めた時、突然の出来事に俺は驚愕した。


 俺のことに集中していたジャージェは、横から割り込んできた蹴りに顔面を弾かれる。そのまま勢い良く地面を転がると、舞い上がった土煙に姿を消した。


「オルディ! しっかりしなさい!」


 窮地を救ってくれたのは、バルカスと戦っていたルーリエであった。彼女はバルカスの攻撃を超スピードで撹乱すると、一瞬の隙にこちらの援護に来てくれたのだ。


「兄貴!!」


 バルカスも突然の出来事に驚きを隠せない。目の前で戦っていた相手が一瞬で消えたのだ。ルーリエが【剣聖】といった大層な称号を持っていると言っていたが、その実力は計り知れない。

 ルーリエが後ろを振り向き、心配そうに俺へ目を配る。不甲斐ないことに、俺は完全に足手まといになっていたのだ。そしてルーリエが見せたその隙は、致命的なものになってしまう。


「──これは?!」


 一瞬だった。ルーリエが振り向いてジャージェ達から視線を外した瞬間。音もなく忍びよった蜘蛛の糸が、ルーリエの足を地面と一体化させたのだ。


「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい」


 シャルディネはルーリエの油断を見逃さなかった。ガッチリと巻きついた糸は、生半可な攻撃ではほどけそうにない。ルーリエは足をバタつかせるが、細く複雑に絡んだ糸は余計にキツくなるばかりだ。糸がスピードを完全に捉えると、蜘蛛の巣にかかった蝶に竜が狙いを定めた。


「ルーリエ、やってくれるな。人族ヒューマンのひ弱な拳よりは、しっかりと殺気がこもっていた。だが、竜にそんな攻撃は通用しない」


 土煙が消えると、瞳を赤く染めたジャージェが立っていた。口には極炎が滾り、その熱量に周囲の空気が陽炎のように茹だる。蝶を炭に変えるその業火に、ルーリエの表情にも焦りが滲み出ていた。


「兄貴! やっちゃってくれよぉ!」


 ジャージェはグッと息を吸い込むと、口を大きく膨らませ咆哮を放つ準備を終える。勝利を確信したバルカスは、両腕を掲げて雄叫びをあげた。

 ルーリエは腕を十字に構え防御の姿勢に入るが、どうみたってそんなことで防げる極炎ではない。このままでは、ルーリエが死ぬ。


 ……ルーリエが……死ぬ?


「がぁあぁぁあぁ!!」


 ──そこからは、無意識であった。

 気づけば俺は、不細工な叫び声をあげながら走り出していたのだ。ジャージェとバルカスは俺の行動に驚いていたが、誰よりも驚いていたのはルーリエであった。

 咆哮を放つか戸惑ったジャージェに向かい、俺は全力で駆ける。無我夢中で右手を振りかぶると、極炎の滾る口内にその拳を叩き込んだ。


「「ぐがぁあぁぁ!!」」


 俺とジャージェが同時に悲鳴をあげる。その理由は双方違うものであった。

 俺の理由は言うまでもない。灼熱の極炎が滾る口に手を突っ込んだのだ。一瞬で皮膚が爛れ、手首の付根から先が黒く焼け焦げる。ジャージェが怯んだことで口から手が抜けると、脳を鋭い痛覚が支配した。焼かれたのは拳だけだが、脳が身体中に痛みを伝達する。その苦痛に、俺は喚き声をあげながら不様に地を転がり回った。


「ぎ……ぎざ……ま。な……にぃを……じだ」


 ジャージェの言葉がぎこちない。口が上手く開かないようで、黒い液体を牙の隙間から垂らしながら俺を睨みつけている。その黒い液体の正体は、アジュールだ。俺は走り出す直前、刑務作業で使うアジュール鉱石を咄嗟に掴んでいた。

 アジュール鉱石は、高熱で溶け、冷めるとすぐに固まって周囲の物質と一体化する。肉体とは完全に同一化しないようだが、グチャグチャに溶けたアジュールはジャージェの口内で接着剤のように固まり始めたのだ。


「はぁ……はぁ……ざまぁ、みろ。人族ヒューマンを嘗めてるから痛い目にあうんだ。俺の右手もおしゃかだが、貴様はこれからまともに口を開けることもできねーな」


 ジャージェは苦しそうに鼻で荒々しく呼吸する。アジュールが相当邪魔なのだろう、自らの口を鉤爪でばり掻きながら悶えている。

 だが、これで戦いが終わったわけではない。ジャージェはアジュールを取り出すことに必死だが、それを見ていたバルカスが血相を変えて近づいてきたのだ。


「兄貴ぃ!! 人族ヒューマンがやりやがった。貴様がぁ兄貴にぃ!!」


 瞳を真っ赤に染めたバルカスが大きく翼を広げると、そのまま上空に飛び上がる。空から俺達を見下ろすと、ジャージェ同様に極炎を口に滾らせ始めた。


「俺様がぁ全員を焼き肉にしてやるよぉ。兄貴は俺の炎でやられたりはしない。役立たずのシャルディネは一緒に焼け死ねばいいさぁ」


 バルカスは上空から咆哮を放ち、仲間もろとも焼き尽くすつもりだ。シャルディネは小さく踞り、「ごめんなさい……ごめんなさい」とひたすら呟いている。役立たずと切り捨てるつもりだが、ルーリエの足を止めたのは彼女だ。そんな彼女を巻き添えにするなんて、非道にも程がある。


「いぃ……ぞ。やで……バル、ガズ」


 自身は炎に対する強い耐性があるのだろう。ジャージェもバルカスの行動に賛同している。性根の腐りきった兄弟だ。しかし、上空からの咆哮に俺達はなす術がない。


(こんな奴らに負けるのか。こんな腐った奴らに殺されるのか。嫌だ……そんなのは絶対に認めない!!)


 こんな終わり方をするくらいなら、俺が魔力を使ってルーリエとシャルディネだけでも守ってみせる。後のことなんて、今考えている場合じゃないんだ。

 焼け焦げた右手で足輪を掴むと、すぐさま頭の中で【理解】と叫ぶ。そしてそのまま解析される第1セキュリティコードを解除し、第2セキュリティコードも解除しようとしたその時。

 突然、遥か空高くからルーリエに目掛けて何かがもの凄い勢いで飛んできた。全員がそれに目を奪われると、視線の先には地面に突き刺さった1本の刀がそこにあったのだ。

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