第8話 生ぬるい水の価値

 青年はゆっくりと立ち上がる。寝そべっていた時は分からなかったが、案外身長は高い。俺の体が180センチほどだと思うが、青年も同じくらいはありそうだ。

 細い眼鏡をかけ、青髪をオールバックのように後ろに流している。キリッとした顔つきと細身な体型を見るに、筋力が優れているというよりは知的な頭脳派といった印象である。


 青年は俺のことジロジロと見ると、部屋の入口まで歩きナターリアに向かって手を差し出した。


「総監様。仕事って言いましたね? 先に報酬を頂いても宜しいですか?」

「ふん、がめつい男め。まぁ良い……ほれっ銀貨1枚じゃ」


 ナターリアは腰に着けていた小袋から小さな銀貨を取り出すと、指で弾いて青年に渡す。青年はナターリアから銀貨を受け取ると、ニヤっと口元を揺らがせてナターリアに頭を下げた。


「これはありがたいですね。銀貨を頂けるなら、張りきって仕事をいたしましょう」

「貴様のそういった抜け目なさは嫌いではないがのぅ。あまり欲を出すと、その内に痛い目に合うぞ」

「ふふ……ありがたき忠告と聞き入れておきますよ」


 青年との会話を終えると、ナターリアは俺のことを気にかけることなくそのままどこかに消えた。牢獄で取り残された俺は、どうすれば良いのか分からずただ立ち呆けている。そんな俺を観察するように、青年はジロジロとこちらを見定めていた。


「あ……あの」

「あぁ、初めまして。俺はヨンヘル。君の名前は?」


 困惑している俺に向かい、ヨンヘルは淡々と話を始めた。ヨンヘルの質問に対し、俺はオルディ=シュナウザーだと名乗る。すると、彼はその名前を聞いたことがあるのか、少し驚いたように目を開き、1人納得するように頷いていた。


「君があのオルディ=シュナウザーなのかい?」

「お……俺のことを知っているのか? 申し訳ないのだが、俺は記憶がないみたいで。自分の名前も少し前に知ったばかりなんだ」


 ヨンヘルは少し俺に興味が湧いてきたのか、饒舌じょうぜつに話を進めだした。腕を組ながら考察するように会話を作り出す。その口ぶりはとても早口なのに、ハッキリと言葉が聞き取りやすい。まさに知的な人にありがちな特徴であった。


「記憶がないのか。君はこの監獄でも結構な有名人だよ。何ていったって、あの竜族ドラゴニックの公爵を殺したのだからさ。気をつけたほうが良いよ、この監獄にも竜族ドラゴニックの囚人はいる。彼らは上下関係に厳しい種族だからね。間違いなく恨みを買うだろう」


 物覚えがないことで恨みを買うと言われても、俺には何のことだかさっぱりである。だが困ったことに、俺が竜族ドラゴニックに何かを問われた時、記憶がないといっても納得する者はいないだろう。逆にそれではとぼけているように見えて、更に怒りを買うのが目に見えている。

 今はここに着いたばかりで実感がないが、竜族ドラゴニックとの関係性をどうするかで、俺のここでの生活が大きく変わりそうであった。


「そもそも、君は死刑囚じゃなかったかい? 何でベルバーグに収容されることになったんだ? 死刑囚は例外なく、リングベル城の地下独房に収容されると聞くけど」

「あぁ……それはだな」


 俺はここに来るまでの経緯をヨンヘルに教えた。

 自分が処刑されたこと。それに伴い、記憶を失ったこと。貴族と王族に審議されたこと。ある1点を除き、全ての流れを包み隠さずに話をした。

 唯一ヨンヘルに教えなかった情報は【転生恩恵】だ。これに関しては、そもそも転生といったものを知る人が極一部の可能性が高い。ましてや恩恵といった特殊能力を簡単に教えてしまうと、何に悪用されるか分かったものではないからだ。


 俺はナターリアの言葉をしっかりと覚えていた。ここにいる者は、もれなく全員が極悪人。ヨンヘルがどんな人物かしっかりと分かるまで、仲良くなった素振りをして探るのが得策だと判断した。


「二大王である天使エンジェルと三大貴族の長達にねぇ。また随分と大物が関わっているようだ」

「二大王? 天使エンジェルってのだけが王族じゃないんだな」

「あぁ。王族は天使エンジェルのミラエラ王と、悪魔デビリアのルーグベル王女のお二方だよ。天使エンジェル悪魔デビリアは、神アダムスによって産み出されたとされる生命。このお二方が紛れもない世界の頂点だよ」


 少しずつではあるが、この世界の仕組みが分かってくる。天使エンジェル悪魔デビリアか、権力を手にした三大貴族が媚びへつらうわけだ。ルーグベル女王の方には会えなかったが、ミラエラ王の威厳は凄まじいものがあった。神が作った生命体というなら、それも何となく納得がいく。


「さて……お互いに色々と分かってきたところで、そろそろ規律についての話をしようじゃないか。とりあえず水でも飲みなよ。肌の水分量が足りていないよ」


 ヨンヘルは自分のベッドの下にある引き出しから水の入ったビンとグラスを取り出すと、おもむろに水をグラスへ注ぐ。とても透明感のある澄んだ水であった。

 そういえば、この世界の来てから食事はおろか、水分補給すらしていなかった。砂漠を歩いたこともあってか、目の前に水の入ったグラスが現れた途端、喉が張りつくように水分を求めだす。


「ありがとう。助かるよ」


 素直に水を受け取ると、俺は一気にそれを飲み干した。生ぬるいただの水だ。お世辞にも爽快感のある喉ごしとはいえない。それでも、渇ききっていた体に1杯の水が染み渡ると、その旨さに感動で涙が出そうになる。欲をいうならばあと1杯ほど飲みたい。そんな物欲しそうな目でヨンヘルを見ると、彼は俺に向かって手を差し出していた。


「水1杯30ゼルだ。金を払いな」

「……はぁっ?! 金とるの?!」


 こいつ、さっきナターリアに欲を出しすぎるなって言われたばかりだろ?

 自分から水を飲ませておいて金をせびるとか、とんだ詐欺師じゃないか。だいたい、ゼルだ? ゼルってのが日本円でどんな価値があるのか知らないが、そもそも俺は何も持っていないぞ。まさに一文無しの貧乏転生者だ。


「いっておくが、俺は金なんて1円たりとも持っていないぞ」

「円? 円じゃなくてゼルが欲しいんだが。まぁいいよ、特別に貸しにしといてあげる。ゼルが手に入ったら、利息つけて50ゼル払いなよ」


 ほれ見たことか、無茶苦茶を言ってやがる。監獄に入っているような奴にろくなのなんていないんだ。こいつ、かなりの金好きみたいだな。そうじゃないなら、この監獄生活にゼルってのが必須なのか。まぁどちらにせよ金はあって困るものじゃないはず。


「すまないが、少し教えてくれないか? さっき総監から銀貨みたいなのを貰っていたよな? あれでいくらになるんだ?」

「あぁ、そんなことも忘れているんだね」


 ヨンヘルが小袋を取り出すと、そこから数種類の硬貨を並べて俺に説明した。

【金貨】1枚で10000ゼル。

【銀貨】1枚で1000ゼル。

【銅貨】1枚で100ゼル。

【鉄貨】1枚で10ゼル。

【石貨】1枚で1ゼル。


「ゼルは監獄だろうが外の世界だろうが共通な物さ。外の世界で生きていくために必須な物だけど、この監獄内では更にそれが重要になる。ゼルがなければろくな飯も食えないし、体調を崩した時に薬を買うこともできない。他の囚人との取引にも使うし、看守に媚びる時にも必要さ」

「異世界でも金か。こんな仕組みを作った奴に腹が立つよ。俺が監獄でゼルを手に入れようと思ったら、どんな手段がある?」

「ん~……何でも無料で教えるのはしゃくさわるけど、水代を稼いでもらわないといけないしね。同居者となったよしみもある。何個かゼルを稼ぐ手段を紹介してあげるよ」


 ヨンヘルが言うに、監獄内でゼルを稼ぐ方法は大まかに3つだ。

 1つは、看守に雇ってもらい労働に勤しむこと。これが一般囚人にできる基本的な稼ぎ口だ。単価は死ぬほど安いみたいだが、1日働けばだいたい2、300ゼルほど稼げるらしい。そう思うと、ヨンヘルが提示した水1杯がどれだけボッタクリか際立つな。

 もう1つは、露店経営だ。住宅施設の外にある小さな商店街。そこにある店を経営すれば、大きな収益を得ることができる。しかし、それは想像以上にハードルが高い。自由時間にしか店は開けれないうえに、物品の入荷も独自でルートを作る必要がある。監獄に入ったばかりなうえ、この世界のことをあまりにも知らなさ過ぎる俺には無理ゲーだ。

 最後に、囚人間の取引。さっきの水が良い例だが、単純に相手の欲しがる物を用意し、それをゼルで売る。勿論ゼルじゃなく物々交換もありだな。だが囚人間での取引は原則禁止とされている。理由は簡単、揉め事を出さないためみたいだ。


「規律が色々あるからね。囚人間の取引も露骨にはできないし、露店経営ができるのも極一部だけだよ。俺が君に紹介できるとしたら、看守からの雑務だね。あっと、規律を教えないといけなかった。すっかり話がそれちゃったよ」


 ヨンヘルは1冊の本を取り出すと、それを俺に渡して規律の説明を始めた。

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