第4話 矯正歯ネギ事件

 日が沈み月が昇る時間、マンションの螺旋階段からは大阪の方まで見渡せる夜景が見える。どれだけ夜が更けても動かず消えない地上の星たちは、何度見ても飽きない。


 部活でクタクタになった体。母親が作ってくれた夜ご飯でペコペコだったお腹は満たされ、再加熱した風呂の熱さが心身に染み渡りホクホクとなった21時ごろ。夜風に当たりに少し外へ出るのが、稜(りょう)の日課だった。


 螺旋階段の踊り場から夜空を見上げると、今日の月は真ん丸だ。そうか、今日は中学生になって、2回目の満月の日だ。


× × ×


 中学生活にも徐々に慣れてきた。この間は初めての中間テストがあった。5教科しかないし、数学は塾で先取りしているから全く苦労はしなかった。理科と社会の勉強方法だけは手探りで、90点には届かなかったけど、まあ初回にしてはボチボチの点数が取れたと思っている。


 部活は仮入部期間が終わり、本格的にサッカー部へ入部をした。小学生の時のサッカークラブとは違い、明確に先輩という存在がいる中でサッカーをするというのは中々に気を使うし、緊張もして疲れるが、今のところ楽しくやれている。



 螺旋階段を降りるときに太ももが痛む。練習でやった校内10周のランニングが確実に足に効いている。今日の夜散歩はこの辺にしようか、と切り上げようとすると、向こう側から声が響いてきた。


「イチッ! ニッ! サンッ! シッ!」


 稜は声の出どころに向かい、1号館から2号館側へ歩いた。


 ブンッとバットが大きく空を切る音がする。2号館と3号館の間のマンションの踊り場で、今日も欠かさず素振(すぶ)りをしている野球少年がいた。



 細野(ほその)太悟(たいご)。「日本一のショート」を本気で目指し、野球に勤(いそ)しむ同級生だ。詳しくは知らないが、中学の野球部ではなくどこか外のチームに所属しているらしい。


 稜とは小学校からの同級生であり、中学生になった今は、稜の部活の朝練がない日に他2人と合わせて4人で一緒に登校をする仲でもある。


 太悟の素振りも夜の日課のようで、時間的に合わないことも多いが、こうして稜の散歩と鉢合わせすることもしばしば。こうして毎日のように素振りをする姿からしても、太悟は本気で夢を現実にしようと努力していることが窺(うかが)えるな、といつも思う。



 小学校の頃から運動神経抜群で、足の速さもそれが故にモテてしまうほどに断トツだった。

 彼自身もその当事者も今はもう忘れてしまっているかも知れないが、今でも覚えているエピソードがある。大悟は小学校で1番を争うくらいかわいく、人気だった女の子、石浦(いしうら)優(ゆう)に小学生にしてなんとプロポーズをしたのだ。印象的だったのはその時のセリフである。


「俺が野球選手になったら、結婚してほしい」


 返事は「イエス」だった。小学生でこれほどまで自信を持って夢を口にできる人がどれだけいるだろうか? そして、それが現実的だと思わせる運動神経があったことも疑いようない事実である。小学生の女子がメロメロになるのも頷ける話だ。



 しかしその反面、学校内でのヤンチャっぷりは皆(みな)の知るところ。並外れた身体能力をもたらす体は大きく、それ故に教室内でお山の大将になるのは必然なのかもしれないが、その存在を疎(うと)んでいる人は少なからずいた。


 主にイジり……捉えようによってはイジメ、の対象になるのは決まって、体が小さかったり、少し気の弱そうな奴だ。

 稜、月江(つきえ)、増村(ますむら)の班で言えば、月江がその対象に当たる。しかし月江は鈍感なのか、そもそもそういう性格なのか、イジられても持ち前の笑顔で「そんなこと言わんといてや〜!」と明るく返し、変な空気にはならない。



 僕、蓮田(はすだ)稜は小学校の同級生で友達ということもあるだろうが、なぜか一目を置かれているようで、絶対にイジられたりはしない。逆に言えば、ものすごく仲が良いわけでもない。必ず一定の距離感があって、その距離の中で仲がいいという感じだ。


 だから僕も太悟に変に干渉したりしない。イジりが度を越して、イジメっぽくなろうとしているなと思っても、太悟を止めたりはしない。そういうことはしないという暗黙の了解を僕は勝手に自認していた。



 亜翠(あすい)は帰国子女ということもあったのか、気の小さいタイプでもないが、太悟によくイジられる対象になっていた。太悟は亜翠をイジり、気持ちよくなる。亜翠は亜翠なりにうまくその場を繋ぎ、笑って凌(しの)ぐ。しかし、少しエスカレートしてしまった。僕の曖昧な態度が災いしたことも間違いない。


× × ×


 ある日、給食を食べ終わり昼休みになるまでの時間に、僕と太悟の班のところへ何人か集まり、喋っていた。そこには亜翠や亜翠と仲のいい、釘元(くぎもと)、太悟と仲のいい谷川(たにがわ)やあと数人ほど来ていた。


 僕と亜翠も少し会話をする程度には仲良くなっていて、関係性で言うなれば「喋るクラスメート」といった具合だ。どちらかというと釘元の方が、谷川と一緒に最近ハマってるパズルゲームの話をよくする仲ではある。


 その場でもパズルゲームの話や残った牛乳を誰が飲むかなどの話でなんだかんだと盛り上がっていた。すると、どこかのタイミングで太悟の大将節が炸裂する。


「おい、亜翠! おまえ、歯の矯正にネギ挟まってるやん! おもろ!」


「え、そう?」


 思わぬ急な指摘に亜翠は咄嗟に口を押さえる。

 ゲラの谷川は同調して、大きく笑う。


「ホンマや! あははははっ」


「トイレで見てこいよ。お歯黒じゃなくてお歯緑なってんで」


「何それ。めっちゃおもろいやん」


 太悟と同じく、イジりが好きなヤンチャ系女子・増村もそちら側につく。


「ああ、うん」


 亜翠は言われた通り、トイレに向かった。


 まだここまでなら、その場で楽しいノリだったと思う。僕もなんら気にしていなかった。でも最初のドラミングを褒められ、周りに煽(おだ)てられたお山のマウンテンゴリラは、もっと大きなドラミングを始めてしまった。


「いや前から思っててんな。結構ない? “ネギ”の矯正に何か挟まってんの」


「ちょっと待って、亜翠のこと“ネギ”言うてんの?」


「あははははっ」


「いやええやろ。“ネギ”やねんから。間違ってへんやろ?」


 ニヤケ顔でゴリラは盛大にドラミングをしていた。周りも同じ意見だと言わんとする圧力。


 僕は流石に……と思った。横を見ると釘元も渋い顔をしている。なんなら太悟に軽蔑の目を向けているようにも見える。そう思う。調子に乗りすぎだと。別にこんなノリは楽しくない。僕も好きじゃない。だが有無を言わさぬようにその悪ノリは共鳴し、場を包み込む。


「なあ?」


 えっ……。ドラミングの音圧がこちらを向いた気がした。気のせいか、だけど共鳴の波が強制的に僕を振動させようとしているように感じた。


 ガラガラガラ、と教室のドアが開き、亜翠が戻ってくる。みんなが亜翠の方を見る。中には笑いを堪えたような顔をしている者もいた。僕には亜翠がある程度何かを察したような表情をしているように見えた。


 亜翠と目が合う。でも僕はただその場の圧力に同調するように、目線を逸らし精一杯笑うことしかできなかった。


× × ×


 こんなことがあったからって、僕と亜翠の関係や僕と太悟の関係に特別何か変化があったわけではない。というかむしろ、何事もなかったかのようにこれまでと変わらない日々が続いている。


 だけど僕の心には、この「矯正歯ネギ事件」が喉につっかえてなかなか取れない魚の小骨のように引っかかっている。


 謝ったりはしない。話題に上げたりもしない。当の本人は全く気にもしていないかもしれないから。そんな些細な出来事を忘れているかもしれないから。そんな言い訳を心の中で念仏のように唱えて何とか忘れようとする。

 だけど、根深く傷ついているかもしれない。


 小骨は僕の胸に相当深く突き刺さっている。どれだけ月日が経っても、取れる気がしない。

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