1インチ

ザ・1インチは、伝えたい。もっともっと真剣に、空を見て海を見て、風を感じて心を感じて、手をつながなければ未来は訪れないと。1インチは旅に出た。古い古い誰かの自作パソコンのケースに乗って川を下った。


ザ・1インチの言葉は誰にも届くことはなく、雨が強く打ち付けて、風は激しく回ってぶつかり、実験室から逃げ出した鼠が唯一耳を傾けた後、もっとよく考えるべきだったね、と言った。そして蜘蛛の巣に絡めとられてしまった。八本もあるのに、一つも繋げない手。


黒いキャンバスに黒い絵の具だけで何が描けるだろうか。元通りになったら何が楽しいんだろうか。崩して壊して放り投げて、変わってしまったものの中に見つけられる尊厳があるかもしれない。果実をかじったせいとか、かき混ぜ方が悪かったとか、信じない。言葉は、ほとんど通じない。「助けて」通じない。「助けろ」通じない。「光よ」誰に? 「何のために」誰が? 


そのための武器だ。


八回、手をつないだ。動かなくなった歴史と。動かなくなった希望と。動かなくなった殺意と。野生の鼠たちがじっと見ていた。見極めていた。強いか弱いか。美味いか不味いか。正しいか間違っているか。


そのためでもある武器だ。


振り上げて、振り回して、走って、跳んで、かかとで赤道を消して、極地の旗を抜いて、画伯の絵に三割引きのシールを貼って、文豪の誤訳を全て修正して、放流された鯉にラブソングを歌って。


回るから続く。落ちないように走る。回るから戻る。進まない。時間は回らないのに。星も回っている。電子も回っている。止まっているものなど無い。手をつなぐには、同じ向き同じ速さで回らなければならない。そんなのは無理だ。


無理だとしても、武器がある。


黒いキャンバスの中に、黒い絵の具で描いた未来。何も見えない。世界には隙間がない。1インチも。 

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