第13話
日のあるうちにアパートに帰った。二部屋あるうちの片方、何もない洋室のフローリングの床にはヘッドマウントディスプレイが置いてある。部屋の中央に腰を下ろし、ただ、床を見つめた。ワックスの光沢はとっくに失われて、外光をにぶく反射させている。
ディスプレイを装着すると、昨夜からスリープモードになったままだったから、すぐに起動した。
僕は、車のテールランプの赤い群れを見ていた。渋滞中の三車線が雨に煙っている。車体を叩く雨の音。運転席には誰もいない。フロントガラスをおおう水滴。水滴の中につくられるもう一つの世界。
テールランプが一斉に消えて、視界が赤から青に変わる。学校の25メートルプールの青い底にいるような、水底の青さ、視界が青かった。
メニュー画面を操作して、タナカタくんの秘密基地にワープする。最近は、彼のいない彼の秘密基地で過ごすことも多かった。
壁のポスターの配置も、もう覚えた。絵の中に手を入れる。水の中に手を浸すような感覚。DJ機材の操作にも慣れた。ボタンに触れるとディスクが回り始め、いつものEDMがかかる。一人で踊り始める。誰の目も気にしなくていいから、だから僕は、この世界が好きだった。
ミキサーを操作すれば、ボリュームはもちろん、たとえば、曲のスピードも変えられた。
いつもの、
(フレル、ユレル、ユレロ)
そう言っているように聞こえていた声はスローダウンのエフェクトがかかると、
(フーリアリーユー)
という男の声になる。
続けて、
(ユーリアリーユー)
最後に、
(ユーゲットオン)
と、彼は言った。
踊り疲れると、また違う世界に行く。
何度かワープを繰り返し、最後に、キャットストリートにたどり着く。遊歩道には誰もいない。歩いていった先、公園にだって誰もいない。だけどやっぱり彼はいた。ポール時計の下に立っていた。
少し離れた場所からも彼の赤いパーカーは目立つからすぐに気づくことができる。今日は顔を上げ、空に視線を向けていた。暮れ始めた空の美しい赤は、やがてにぎわう夜の気配がする。
僕が近づいていくとレターチャットが飛んでくる。彼にはいつだって声がなく、表情を変えたり、手を振ったりするエモーションもない。視線は空に向けたまま、一方通行のコミュニケーション。
「きみのラブを僕にちょうだい」
「いいよ」
と、僕は答える。
初めてする画面操作は思っていたよりカンタンだった。メニュー画面を進んでいくと、「目の前にいるネイバーにラブを送りますか?」というアイコンが表示された後に、二つのウィンドウが浮かび上がる。
(はい………僕はきみのことが好きみたいだ)
(いいえ……やっぱり、やーめた)
ウィンドウに触れる。すると、真っ赤なハートが僕の胸から放たれて、彼に向かって飛んでいった。胸が、からだの内側から引っ張られる感覚がある。僕のラブは彼の胸に吸い込まれていく。
彼につられて空を見上げ、ぐるりと視界を一周させる。そしてまた振り返ると、もうすでに彼の姿はなく、「修理中」と張り紙のされたポール時計が、ただ立っていた。
キャットストリートで待ち合わせ 鹿ノ杜 @shikanomori
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