第12話
「どうしたの、その手。骨折?」
「折れてはないよ。ちょっと……転んだだけ」
「バッカだねー」
だはは、とアサミくんは笑う。目立たないように指にだけ巻いていた包帯に、彼は目ざとく、すぐに気づいた。
秋物の新作アイテムの展開が始まるタイミングで、また、ディスプレイの手伝いに駆り出されていた。腫れの引かない左手の小指をかばいながら作業を続け、合間に、アサミくんの話を聞いた。スズキちゃんが、ここ数日、無断欠勤をしているのだという。
「困るんだよね、これから忙しくなるっていうのに」
バックヤードと店頭の行き来を繰り返しながら、彼は大げさに嘆いてみせる。彼が運んできた包みを開けるのが僕の役割。ハンガー吊りのついた段ボールを開けると、秋色のアイテムが押し込まれている。片っ端からハンガーラックに移していると、
「……でも、スズキちゃんっていい子だよね」
と、僕は言っていて、
「ええ、何言ってんの。おれの話、聞いてた?」
と、アサミくんはあきれた。
しばらく僕たちは黙りこくったまま働いた。しばらくして、思い直したのか、アサミくんは言った。
「そうだね……たとえば、何か飲み物買ってきてって頼むと、ジュンくんはあからさまにめんどくさがるけど、スズキちゃんは全然そんなことなくて、嫌な顔一つしないで、何なら楽しそうに、何がそんなに楽しいのかっていうくらい、あれは、なかなかできないよね」
「別に、僕だって、めんどくさがったりしないって」
「そうかな?」
からかうようにアサミくんは笑う。
「行ってきますよ、コンビニくらい」
そう言いながら、手を止めて、伸びをする。一休みするのに、ちょうどいい疲労感。そのまま、閉め切っていた入口のガラス戸を開け放つと、生ぬるい風が僕の顔を叩くように吹き込む。
「そうだ、ジュンくんもスズキちゃんに連絡してみてよ」
アサミくんの言葉が外に出た僕を追いかけた。
表参道のローソンまで歩いていき、アサミくんのために、甘ったるい缶のコーヒーを買う。夏の日差しが残っているこんな日にも、彼はきっと好む。自分の分にはファンタのオレンジ味を買って、店を出る。
左手をかばって、右手にレジ袋を提げる。スズキちゃんに電話をかけてみようと思い立って、右のポケットからヒビが入ったままのスマホを取り出した。右手首にレジ袋をかけたまま、スマホを操作し、右耳に当てる。レジ袋がひじまでずり下がっていく。
落ち着かない気分で歩き始め、気づけば神宮前交差点の方に足を向けている。長いコール音、その合間に小鳥が鳴く声。街路樹の上で二羽、鳴き合っているのが聞こえる。声のする方を見上げると、枝葉のすき間に一羽いた。長い尾を揺らしながら、鳴き、どこか違う場所でもう一羽が応えるように鳴く。
「尾の長い鳥はオナガっていうんだって」
と、誰かが言っていた(誰だっけ……思い出せないな)。しばらく樹上を見上げていたが、もう片方はどこにいるのかわからなかった。
ふいに電話のコール音が途切れ、少し間があった後に、「はい……」とスズキちゃんの声がした。
「もしもし、スズキちゃん? アサミくんに聞いたけど……どこか、具合でも悪いの?」
僕の問いに、ついさっきまで隣にいたような気軽さで彼女は答える。
「具合? 別に悪くないですよ」
「じゃあ、どうして?」
今度は何も答えない。
交差点に差しかかり、立ち止まる。沈黙にたえられなくなって、口を開く。
「この前のことなら、僕が悪かったよ。もっと他に、言い方があったかもしれない……」
「この前のこと? ああ、それは全然、関係ないです。気にしてませんから、私。だから、先輩も気にしないでください」
電話越しの声に、笑みを浮かべ、僕に顔を寄せるスズキちゃんをイメージする。
「でも、もう私、お店辞めます。全部、新しくやり直したいんです」
まだ数日も経っていない、あの夜の、スズキちゃんの軽やかな一歩を思い出す。驚くほど軽やかで、あっさりとした一歩だった。
信号が変わり、周囲の人が歩き出したのにつられて、僕も歩き出す。横断歩道の白線を、できるだけ軽やかなステップで飛ぼうとする。はねるたびに、ひじにかけたレジ袋がうるさい。鼓動が高鳴って、小指がじんじんと、鼓動のリズムで痛み始める。
僕は息を弾ませたまま、
「ねえ、自分のこと、好き?」
と、聞いてみる。
スズキちゃんはくすぐられたように笑いながら、答えた。
「あったりまえじゃないですか。私は私がとても好きだから……だから誰かを好きになるんです」
店に戻り、アサミくんに缶コーヒーを差し出す。ありがと、と言いながら、百円玉を二枚渡してくる彼に、伝える。
「電話、つながったよ。スズキちゃん、辞めるって」
「そうだと思ったよ。ずいぶんと衝動的だよな」
ため息をついて、「困るよな」とか、「求人出すのめんどくさいなあ……ジュンくん、やってよね」とか、アサミくんはひとしきりぼやいた後で、「うらやましいよね」と言った。
「うらやましい?」
「さっさと、次に行っちゃうんだから、さ」
アサミくんは、まだ服を着せる前のトルソーと向き合いながら、缶を開けた。
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