第11話
タナカタくんの秘密基地に張ってあるポスターには仕掛けがあった。特定のポスターに向き合い、手を伸ばすと、絵の中に手が入っていく。そして、絵の中の特定のアイテムに触ることができる。
この部屋にいくらでもあるポスターの一つひとつに触れていく。
青の背景、青空だろうか、隣り合った男性の肩にもたれかかる少年。見ているこちらを見すえる男女、女性は気取った表情で男性の肩を抱き、一方の男性は無表情(この映画は見たことがある。確か、証明写真ボックスでのワンシーン)。くわえタバコの女性が運転席からルームミラーで後部座席に座る女性の様子をうかがっている。
あるいは、たとえば、向かい合う男女が描かれたポスターに手が吸い込まれていく。ホテルの一室の窓際、外は暗く、男がキャンドルを灯そうと二人の間に置かれたナイトテーブルに手を伸ばしている。テーブルに置いてあるマッチを擦って、僕が代わりにつけてやる。と、僕とタナカタくんがいる部屋でもキャンドルが灯る。部屋の四隅や手が触れそうな宙、僕の足元に灯る。
僕が勝手にいじって遊んでいると、
「あの……ジュンジュンさんは自分のこと、好きですか?」
と、タナカタくんがソファから言う。
「え、自分のこと? そうだな……少し、考えてもいい?」
「もちろんです」
彼はキャンドルの火に触れながら続ける。
「最近ですね、これができたら、自分のことが好きになれるかも、ってことがあって」
「それが何かは教えてくれないの?」
「あっは、おかしいですよね」
「いや、そんなこと……」
DJの機材が描かれたポスターがある。DJコントローラーには無数のつまみ(LOW、MID、HI)と端子、七色のボタンが急かすような明滅、ミキサーにはVOLUME、BASS、TREBRE、EFFECT……ターンテーブルに針を落とすと、音楽が始まる。タナカタくんが以前にもかけたEDM、僕の鼓動を理解しているのか、心地いいリズムの重低音、時おり、
(フレル……ユレル……)
と、また声がする。
ボタンを適当に押してみたり、CUE3、CUE1、LEVELを回してみたり……使いこなせる気がしない。
「ジュンジュンさん、この前ね、ネイバーが誰もいないときがあって……そういうときは一人でただ散歩をするんだけど、なんだかそういう気にもならなくて、世界にひとりぼっちになった気がして、すぐ下の階に親だっているんだけど。
気まぐれに、部屋を出て、階段を下りて、リビングに父さんと母さんがいて、あら、珍しい、なんて言われたりして。晩飯食ったらいつも部屋にこもって出てないから。で、母さんが冷凍庫からアイスを持ってきて、僕に渡して、MOWのバニラ味で……」
それから彼は少し黙った。ソファから立ち上がって、僕の隣に来る。ミキサーのつまみを回したり、スライドしたり、美しい演舞のような所作で曲調が変わり、さらに、ボリュームも上がる。降りしきる雨のように音が頭上から叩きつけられる。
「単純なやつなんですよね、僕って。アイスが用意されていたってだけで愛されてるって思っちゃうような。でも、単純なやつの方がいいのかも」
EDMにかき消されながら、かろうじて聞き取れる、タナカタくんの声。
「このワールド、前は、けっこう人がいたんですけど、今では、訪れる人もめったにいないんですよ」
今日は僕の方が先にアオイに気づいた。
少女像の脇から階段を駆け下りると、一本の街路樹越しにスクランブルスクエアのビル明かりが見えた。白い光の輪郭で縁取られ、夜空の中にくっきりと浮かんでいる。日が短くなっているのがわかって、急に、惜しい気持ちになる。
夜のキャットストリートは、どこからか、淹れたばかりのコーヒーのにおいがする。上空からヘリの音。行き交う人から漏れる、この先、楽しいことしかないといわんばかりの、弾む声。アパレルショップのBGMが戸口から街路に漏れ出している。路地の向こうに見えるカフェの電飾。僕の足元には照明がつくる薄い、頼りない影。木々のシルエットは影絵のように通りに浮かぶ。大きなショッパーバッグを抱きかかえた女性が僕の真横を通り過ぎる。
僕とアオイはショーウィンドウの前で落ち合った。明かりが消えた店のショーウィンドウをのぞき込んでいたから、「何してんの?」と声をかける。中には一体のマネキンが浮かぶように立っていた。そのマネキンは裸だった。
「なんでこの人、何も着てないの?」
と、アオイが言う。
「秋服の切り替えをしてるんじゃないの?」
だけど、店内には誰もいないようだった。
アオイの横に立ち、マネキンをながめる。ショーウィンドウのガラスに僕の姿が薄っすらと反射して、マネキンと重なって見える。彼(からだつきからして)には頭部がなかった。ガラス越しに向かい合うとちょうど彼の顔があるはずの位置に僕の顔が来て、彼の白いからだに僕が着ている服が映る。
ブドウのような濃い色を気に入って買った七分袖のカットソー、ジュンくんはあんまりゆるっとしたパンツをはかない方がいいよ、とアサミくんに言われていたから、薄色のスキニージーンズ、履き古したスニーカー(そろそろ買い替えようかな)。
アオイはお腹に手を当てながら、
「あーあ、今年の夏も、どこにも行けなかったな」
と、つぶやく。
薄手の赤いカーディガンを羽織っていて、歩き出すとまるで赤い風船のように夜道に浮かんで見える。
なんとなく渋谷の方向に向かって、歩いたり、立ち止まったりを繰り返しながら、
「人が歩くための道って、なんだか心地いいね」僕が言うと、
「ここって川だったんでしょ?」とアオイが言う。
「そうみたいだね」
「川って、そうできてるんだよ。川に沿って、のんびりと人が歩くように。そうとは気づかないくらい、ゆるやかに蛇行して、穏やかな川だったんだよ」
「そうなの?」
「たぶん、そう。いや、絶対そうだよ」
自信ありげに言って、アオイはのんきそうに笑った。
三人組の女の子たちが僕たちを追い抜いていった。何か、熱心に話しているのが聞こえ、見ているうちにじゃれ合いが始まり、からだを揺らしながら声を上げる(楽しいから笑っている……あるいは、感情より先に笑い声が生まれてもいいのかもしれない)。
その後も幾人もの人の影が僕たちを通り過ぎていく。夜風が影を揺らす。溜まった熱を冷ますような夜風。
「あれ、今日、なんか、肌寒い?」と僕は聞く。
「かもね」
「あのさ、からだ、冷やさない方がいいんじゃないか」
僕の言葉にアオイはそっぽを向いて、でも、
「……うん、そうかも」
と、しかられた後の子どものようにうなずく。
「今日は、もう帰ろうかな」
「うん」
「ジュンもこっちでしょ?」と渋谷の方を指さす。
「いや、ちょっと用事があるから、こっちから帰るよ」と僕は表参道の方を指さす。
アオイはなぜか吹き出すように笑った。
「そっか……わかった、ねえ、また会える?」
歩き出そうとしながら、
「うん、連絡するよ」
と、僕は答える。
歩いてきた道を一人で戻った。
表参道に出る手前あたり、植栽帯の縁のベンチに腰をかけている人影があった。円形の外灯の下に座り込んでいたのはスズキちゃんだった。体育座りをして、ひざにあごを乗せて、香箱座りをする猫のように、からだがやわらかい。
スズキちゃんも僕に気づき、顔を上げる。
「なんでここに?」
と、思わず声をかけた。
「私がここにいたら、何かまずいんですか?」
怒っているようでも困っているようでもなく、そうかといって楽しそうにしているわけでもなかった。
「僕はもう帰るところだけど」
「そうなんですね。もう、あの人はいいんですか」
何も答えないでいると、
「私は先輩のこと、好きなんですけど。先輩は私のこと、好きになってくれないんですか?」
と、スズキちゃんは言った。告白というほど、何か特別な感情が込められているようでもなかった。
「スズキちゃんのこと、いいやつだって思うよ。そういう意味では好きだけど、スズキちゃんのいいところ、たくさん知ってるけど、でも、今は誰とも、付き合うような気にはなれなくて……」
「知ってました? そういう、人を傷つけないかわりに、自分も傷つかないようにしている、その態度が、かえって私を傷つけてるんですよ?」
彼女は至って冷静に見えた。
「私だって、あのゲーム、店長からもらってたんですからね」
そう言いながら、スズキちゃんはベンチの上に立ち上がって僕を見下ろした。
「私のラブを当然のように受け取ってたじゃないですか」
僕の中の驚きと困惑はすぐに言葉に変わった。たかがゲームの話じゃないか……でも、その言葉を実際に発することはなかった。僕たちはすでに、何か、違うことを話し合っているのかもしれなかった。
スズキちゃんは僕の視線から逃れるように、隣り合ったスロープに向かってジャンプをした。
彼女のからだが宙に向かって持ち上がる。伸ばした右足がスロープの手すりに乗り、数瞬の間、手すりの上でうまくバランスが取れているのか、ぴたりとからだが静止する。その後で、スロープの地面に向かって、もう一度、小さくジャンプする。ぱたた、とぺたんこサンダルが音を立て、スズキちゃんは僕を振り返る。
別に、僕も飛ぶ必要なんて、まるでなかった。だけど、スズキちゃんの動きをまねようとして、まず、ベンチに乗った。跳躍の前の、からだをかがませる動き。
スズキちゃんはじっと僕を見すえたまま、何も言わない。
ひざの関節がバネになったイメージ。足に力が入り、腕を後ろに、それから前に振る。からだが地面を離れる。前に向けた両足が手すりに当たり、その衝撃は後方に向かう。僕のからだは背中の方に倒れ込む。
視界の中、見ているものすべての動きがスローモーションになる。スズキちゃんの口が開き、でも、音は聞こえない。からだから離れていく手すり、ステンレスの銀に映った白い外灯の光、やがて視界の上部に現れた通りの明かり、見慣れた景色は逆さになって夜空に落ちていくよう。左手が地面につき、ひじ、肩、からだの背面のすべてが地面についた衝撃を受けて、僕のからだはようやく動きを止めた。
派手な転倒を見て、道行く人は小さく笑った。
ポケットから財布やキーケース、スマホが飛び出して道に投げ出された。背中の痛みをこらえながら、這いつくばり、一つひとつ、拾い上げる。スマホの液晶画面にはヒビが入っている。立ち上がろうとすれば、からだ中の至るところに痛みが走って、ふっ、と笑ったような声を漏らしてしまう。
スズキちゃんはスロープの上から、
「大丈夫ですか、先輩」
と、僕を哀れんだ。
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