第10話

 久しぶりにアオイから連絡が来た。

 いつものようにローソンに寄り、交番前の歩道橋を上る。ふと、階段の途中から交番に目をやると、スーツケースをかたわらに置いたタルのような体形の白人男性が若い警察官に向かって何ごとかを熱心に訴えている。怒っているようでもなく、あるいは、困っているようにも見えなかった。むしろ、警察官の彼の方が困り果てていて、タオルハンカチを首筋に当て、汗をぬぐいながら、小さなデスクに向かって何か書きつけている。

 階段を上り切り、歩道橋の真ん中で立ち止まる。橋は、わずかに揺れている。足元から感じた揺れが、からだ全体を揺らしている。

 歩道橋の上は思っていた以上に人が行き交い、それだけ橋を揺らす。立ち止まって、写真を撮る人もいるけど、またすぐにいなくなる。

 高校生くらいの年頃の男の子二人が僕を通り越して、手すりにもたれる。白ティーとデニム、白スニーカーというシンプルな出で立ちの方の彼が、さっとスマホを取り出し、前方に向けてシャッターを切る。もう片方の、長身の方の彼もそれに気づいて、肩から斜めがけしたウエストポーチからスマホを取り出し、撮る。彼らは満足げにうなずき合って、立ち去っていく。

 彼らが切り取った景色は、表参道と明治通りの交差点の方向だった。交差点や、その先の明治神宮に向かって緩やかな坂が続く。片側三車線の道路は車通りが多く、そのうちの一車線は路上駐車場になっているから、いつも混み合っている。車道と歩道の間には街路樹がそびえ、歩道に面した商業ビルの五、六階ほどの高さまで緑を茂らせている。左手、渋谷の方面は西に当たり、夏の、この時間は夕日が差し込むから、オレンジの強い光と、対照的な濃い樹木の影が通りを横切り、ゼブラ柄を描く。

 振り返る。彼らが切り取らなかった景色は青山通りの方向。表参道ヒルズに沿って、こちらも緩やかな坂で、似通った景色だ。手すりから身を乗り出すようにしてながめていると、夕日を背に受け、車道に向かって僕の影が伸びていることに気づく。僕の影は、路上に突き落とされ、後方からやってくる車に何度も引かれている。

 階段を下り、シャネル、デルヴォーを横目に通り過ぎる。店内の改装をしているのか、入口やショーウィンドウには水色の養生シートが張られ、作業員は路上に停めた四トントラックとの往復を繰り返している。

 キャットストリートの入口に差しかかると、ヨンデルの少女像の隣でアオイがグリーンの350ミリ缶を飲んでいた。

「お待たせ。何、飲んでるの?」

「ノンアルコールビール。いろいろ試してるんだけど、おいしいな、これは」

 アオイは缶を持っていない方の手で歩道橋を指さす。

「ねえ、何見てたの?」

「いや……あそこって写真を撮る人が多いけど、何を撮ってるんだろうって」

「ふーん……ねえ、どっち側の景色が好き?」

 そう言って、指を左右に揺らす。

「どっちも何も、変わらないよ」

 と、僕は肩をすくめる。

 歩道からスロープを下って、キャットストリートに入る。スロープは幅が狭く、向こうから来た人とすれ違うときに、アオイと、ふいにからだの距離が近くなって、思いがけず触れる。両肩を抱きとめるようなかたちになって、触れようとして触れたわけではない接触がかえって敏感に感じられた。アオイの肌の感触が手のひらに残る。同時に、アオイの香水、グレープフルーツのような、さわやかな柑橘系の香りにも気づく。

 香りは記憶だ。アオイは昔から(それこそ、高校の頃から)、柑橘系のにおいが好きだった。

 アオイは振り返り、スロープの下から僕を見上げる。僕は思い出す。初めてキャットストリートで待ち合わせをしたときのことを。東京で働いているとは人づてに聞いていたけど、成人式の後の同窓会以来、会っていなかった。センター街の方まで歩いて行こうか、新宿まで山手線に乗ろうか、決めかねているうちにずっと立ち話が終わらないで、目についたコンビニに入って互いが好きなように飲み物を買って、また話を続けた。つい先日、彼氏の浮気がわかり、別れたばかりなのだというから、「もう当分、恋愛なんか、しなくてもいい気分?」と僕が言うと、アオイは困ったように笑った。「そうだなあ……」とつぶやきながら、手の甲で鼻の下をこする。

 考え込むように、通りを、ずっと遠くの方までながめながら、

「また二人になりたいから、今は一人でいるの」

 と、アオイは言った。


 スズキちゃんは案外、器用で、もんじゃ焼きをつくるのがうまかった。

「子どもの頃から家でよく家族とつくってたので」

「家でもんじゃ?」とアサミくんが笑う。「お好み焼きなら、うちもよくやったけど。鈴木家はユニークだね」

 金曜のセンター街は特別に混んでいて、この店も予約をしていなければ入れなかったかもしれない。奥まで続くテーブル席はどれも埋まっていて、さっきから何組か入店しようとしたグループがいたが、店員が申し訳なさそうに断っていた。

「何か、味の濃いものを食べたかったんですよね」と言いながら、スズキちゃんは、まず具材だけを鉄板に入れる。両手にかまえたヘラを慣れたように操り、具材を細かく刻みながら炒めていく。

「別に、じーっと見てなくてもいいですよ」

「それもそうだ」

 アサミくんがうなずいて、テーブルの上に備えつけられている蛇口からレモンサワーを自分のジョッキに注ぎ、隣のスズキちゃんのジョッキにも注ぎ入れる。

「あ、どうも」

「ジュンくんもいる?」

 と、向かいから手を伸ばそうとするから、

「大丈夫、大丈夫、自分でやる」

 そう言いながら、キャベツがみるみるうちに、小気味よく刻まれていくさまから目を離せないでいる。

「ねえ、ちょっと、ビールも頼んでいい?」

 アサミくんはほとんどひとり言のように言って、店内を見渡し、店員に向かって手を振る。僕もつられて見渡すと、店員の顔がぼやけて見える。天井に沿って白い煙が充満して、照明の光がぼやけている。

 頼んだビールを待つ間、アサミくんはポロシャツの胸ポケットから黒い包みを取り出して、僕に見せる。

「最近、黒飴にハマっててさ」

「そうなんですよ、仕事中もずっとなめてるんですよ」とスズキちゃんが合いの手を入れる。

「そう、口の中がずっと黒飴なのよ。で、発見したんだよ」

 包みを開けて、口に放り込む。ちょうど店員が運んできたビールジョッキを受け取り、そのまま口をつけ、感じ入るように目を閉じる。

「ビールと一緒に味わうと、おいしいんだよ」

「ね、この人、変ですよね」

「変だね」

 アサミくんはかまわずに話し続ける。

 僕はジョッキに口をつける。口内にレモンの香りを感じ、その後で、かえって感覚が強くなったように、様々なにおいを感じ始める。鉄板から立ち上る蒸気、油、具材の焼けるにおい、隣のテーブルが頼んだ海鮮焼き、バターコーン、にんにくのホイル焼き、スズキちゃんの今日の香水、額に薄っすらと汗。

 自覚はないが、酔いが回っているのだろう、向かいに座っているアサミくんの言葉がうまく聞き取れない。その代わりに、アサミくんの舌の上にある黒飴の甘さが僕にも感じられるような気がしている。喉の奥に、ありもしない甘さを感じている。

 スズキちゃんはジョッキをあおった後で、再びヘラをかまえる。ドーナツ状の土手をつくり、生地を流し入れると、ダシの香りが一気に広がった。具材と混ざった生地を平らに薄く伸ばしていくと、粘り気の出てきた生地がふつふつとして、食欲をそそる。

 感心したようにアサミくんがうなずいて、口が動いたから、何か言ったのだと思う。たぶん、うまいもんだね、とか、そんなようなことを。

 店を出ると僕たちはそれぞれ満足げにため息をして空を見上げる。ちょうど満月がぽっかり口を開けるように浮かんでいる。何となく黙ったまま、センター街を駅の方に向かって歩き始める。すると、後ろの方がにわかに騒がしくなった。振り返るとすぐ後ろに女子高生の二人組がいた。首元にチェック柄の大きなリボンをつけた彼女たちは夜空を指している。見上げれば、黄色く灯ったロフトの看板や、カラオケ店の真っ赤なロゴに紛れて、黒い小さな生き物が無数に飛び交っている。夜空がせせら笑っているような、鳴き声が響く。見ているうちに僕たちの頭上を群れをなして通り過ぎ、月に吸い込まれるように上空に向かって飛び去っていった。

「鳥かな」と人ごみの中で、誰かが言った。

「あれは鳥じゃなくて、コウモリの群れだよ」

 アサミくんが僕に向かってつぶやいた。

「見た? まっすぐに飛んでなかったでしょ? 普段は地下の下水とかにいて、代々木公園の方にさ、今から夕食に行くんだよ」

 僕たちは路上の真ん中でしばらく夜空を見上げたままでいた。僕たちを避けて人が行き交う。人々は器用に身をひるがえして、ぶつかってしまうことはない。

「じゃあ、後は任せた」

 僕の右肩にぽんっと手を置き、僕が何か言う前にアサミくんは人の流れに紛れ込んだ。通りの角を折れて、彼の姿がすっかり見えなくなってしまうと、

「……つまんない、もっと楽しいことしましょう」

 と、スズキちゃんが僕の左腕にしがみついてくる。しがみついたまま、歩き始める。道の交差を駅とは反対側に曲がって、喧騒のより深い方へと進んでいく。

 右腕で締めつけるようにするから胸の下着の金具が当たる。イエネコが飼い主の愛情を試すみたいに、その小さな爪を立ててじゃれている。こうして見ると渋谷に百人はいそうな普通のハタチの女の子だ。オレンジ色の髪は本当にきれいに染まっていて、ヘアオイルをなじませて、ツヤがあり、薄めのメイク、瞳だけは何か大切なものを見逃すまいとしてぱっちり開かれ、髪色と同じカラーのアイシャドウが彼女の瞳を飾っている。口元で幼く笑い、からだのラインを見せる小さめのティーシャツ、細身の黒いパンツ、ぺたんこサンダルと親指だけ赤く塗ったペディキュア。髪に鉄板からはねた油のにおいが残っていて、夏の夜の濃い人いきれと混ざり合う。

 ちとせ会館を過ぎたあたりでスズキちゃんがクレーンゲームという文字に反応した。僕から離れ、ゲームセンターの中に入っていく。外とはまた異なる喧騒、手当たり次第の電子音と何層ものBGMで僕たちの会話はほとんど叫ぶようだ。

「何か、ほしいものあるの?」

「え?」

「何か……」

「さむーい」

 そう言って、また僕にくっついたり、離れたり。スズキちゃんの手は冷たくなっている。

 店内の冷房は効きすぎていて、汗ばんでいた僕のからだを冷やした。背中に当たった冷風が首筋まで上り、汗で濡れた腰に下がり、汗が引いてしまうと濡れたティーシャツの感触だけがいつまでも残った。

 スズキちゃんは店内を一周すると、

「これを取りましょう」

 と、サルの人形を指さした。

 一抱えもあるぬいぐるみが三体、筐体の中に寝そべっている。いずれのサルも微笑み、そのうちの一体はウインクをしている。

「おサルのジョージ、かわいいですよね。うちにも、おサルのジョージのゴミ箱があるんですよ。この前、ヴィレヴァンで見つけたんですけど。え、絶対、連れて帰りたい」

 彼女はコイン投入口のそばにある端末にスマホをかざす。すると、大げさな電子音が鳴り響き、筐体をおおっている電飾は流れるような点滅を繰り返す。はしゃぎながらレバーやボタンを操作する彼女を見ながら、気づく。そういえば、かわいいものを見ても、彼女は写真を撮らない。以前、言っていた。「SNSはしないんです、私」かわいいし、バエルし、エモい、チルい、そういったことすら僕たちにはすでに合わないのかもしれなかった。「SNSって嫌いなんですよ。感情だけで話が進んでいくようで……」スズキちゃんはもっとしたたかだった。「そう、感情が流れている巨大な川みたいで、ながめていると、キモチワルクなっちゃうんですよね」

 何度か動かしてみた後で、サルのからだの向きがあおむけから息が苦しそうなうつ伏せの姿勢に変わっただけだった。

「店員さん、呼ぼうか? 取りやすい位置に変えてもらう?」

「そういうのは、いいんです、私」

 強がっているようにも見えなかった。筐体からあふれる明かりが彼女を照らす。首をかしげている。気が済んだのか、スズキちゃんは僕の手を引き、腕をからませてくる。出口に向かおうとして、歩きながら僕を見つめる。

「この前のこと、ごめんなさい」

 と、言って唇をなめた。だから、舌の先に青のりがついているのが見えた。

「店長にも言ってないですか?」

「言ってないよ」

「じゃあ、二人の秘密ですね」

 スズキちゃんは急に立ち止まる。

「あの女の人にも?」

「……誰のこと?」

「キャットストリートで待ち合わせしてた……ねえ、あの人、誰なんですか? 恋人とは別れたって言ってましたよね。もう新しい女つくったんですか」

 僕の腕を強く握り、爪を食い込ませている。爪の跡がつくくらいに。でも、痛みはない。意外にも彼女の爪はきれいに切りそろえられている。

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