第9話
僕がラブを使ってみたいと言っていたことを、タナカタくんは忘れないでいてくれて、「いちからワールドクリエイトしなくても、ラブを使う方法を見つけましたよ」と教えてくれた。
その夜、彼と待ち合わせたワールドは地下通路から始まった。
都会の地下に張り巡らされた通路、間引きされた蛍光灯が点々と道を照らす。コンクリートでできているが、ところどころ地下水が染み出して湿っている。どこからか種が飛んできたのか、道に入ったひび割れのすき間から一輪のタンポポが咲いている。見上げれば、天井にもすき間があって、地上の光が漏れ落ちている。
通路の壁を隔てた向こう側を地下鉄が走り去る音、振動。再び静まり返ると、先導してくれるタナカタくんの話し声と二人の足音の他に、水の流れる音が聞こえた。
立ち止まり、音の正体を確かめようとしていると、タナカタくんが振り返る。
「どうかしました?」
「いや、なんでも……」
耳に残っている感触、そうだ、地下を流れる川は暗渠というのだった。地表から見えなくなっただけで、水路は残り、今もなお流れ続けている、そう……何か大切なことを思い出した気がした。
通路の果てには小部屋があった。中に入ると明かりがなく真っ暗だ。次第に足元に光源を得て室内の様子が浮かび上がる。タナカタくんが歩いた跡、靴底の跡がそのまま白く光り、それが光源になっているのだった。
まず、壁一面に積み上げられているブラウン管のテレビが目を引く。ダイヤル式からビデオ内蔵、頭にアンテナが伸びたものまでいくつもの種類があった。いずれの画面もグレーのまま、のぞき込んだ僕の顔を映し返している。
「僕の……秘密基地みたいなもんです」
テレビの対面、L字のカウチソファにからだを投げ出しながら、タナカタくんが言った。
壁や天井、至るところにポスターが張り巡らされていることに気づく。国内外のバンドや、新旧を問わない洋画や邦画、おそらくミニシアター系ばかりが集められているから不思議と統一感のようなものが感じられる。
「サブカル好きの友だちの部屋に遊びに来たみたいだ」
と、僕が言う。
少し間が空いた後で、彼は立ち上がり、壁のポスターに向き合った。
「このワールドの仕掛けにはコツがあって……」
突然、爆音のEDMが流れ始める。部屋全体が振動しているようにすら感じる。鼓膜ではなくて、肌の、皮膚感覚で震えている。低い、重さのある電子音を鼓動のリズムで理解して、からだは自然と揺れる。
歌詞のないインストかと思っていたら、時おり、男のぼそぼそとした声、どこか、ラップのような口調が、
(フレル、ユレル、ユレロ)
と、言っているように聞こえる。
ブラウン管の画面がライティングになって、音楽と連動した光を僕たちに投げかける。熱心にステップをしてみたり、ダンスのエモーションをしてみたり、ひとしきり遊んだ後でタナカタくんは言った。
「たとえば、このワールドはパブリックの設定がオフのままなので、もう変えることはできないんですけど、パブリック設定がしてあるワールドなら誰でもアップデートできるんです。そのワールドのクリエイターじゃなくても、ラブと交換したアイテムを設置したり、使用したりできるから……ちょっとやってみましょうよ」
僕たちは音楽に身をゆだねながら話し合いを続けた。いくつかの案が出されたが、最終的には僕の提案にタナカタくんが賛成するかたちとなり、僕と彼の秘密会議は幕を閉じた。
その足で原宿を再現したワールドに向かう。まだ人影はまばらだったが、夜の帳が下りたまちはショップの明かりで通りがカラフルだ。
午前0時をまわると、キャットストリートにも人が集まってきた。探索するよりもネイバーとの待ち合わせやボイスチャットをするのに適したワールドだからか、深夜になるほど人が増え、通りは話し声であふれる。
「もうそろそろ、いいんじゃないですか」
と、タナカタくんが言う。
「そうだね」
遊歩道の真ん中で立ち止まり、僕は大げさにデフォルメされた巨大な点火装置を出現させた。アニメに出てくる起爆装置のようなアイテムで、T字のハンドルがついた木箱から何本も配線が伸びているという代物だ。
木箱によじ登ると、まわりにいるアバターたちも気づき始め、にわかに注目をあびる。いたずらをしかけているようなくすぐったさを背筋に感じながら、ハンドルに体重をかけ、点火、キャットストリートの上空に、僕は花火を打ち上げた。
笛音、空と地表を染める虹色、破裂音が胸を突く。そして次々と。
ひと仕事、終えたような気になって、遊歩道を歩く。
道に接した茂みに寝そべっていた人たちから歓声が上がる。ショーウィンドウの中でマネキンのふりをして遊んでいた男女のアバターが遊歩道に出てきて空を見上げる。白狐のお面をつけた双子コーデのアバターが空をバックに自撮りを始める。
道を行った先には公園があって、二連のブランコや夜色の滑り台、らせん状にねじれたジャングルジムといった遊具に夜行性のネイバーたちがたたずんでいる。猫の顔のかたちをしたひと際大きな花火が打ちあがると、いくつものライクが僕に向かって飛んできた。
打ち上げ花火は、その後、小一時間ほど止まなかった。
「どんだけラブを使ったんですか」
「取っておいてもしょうがないから、全部使っちゃったよ」
「なんて人だ……」
タナカタくんがあきれるのも無理はないのかもしれない。噂を聞きつけたアバターたちが駆けつけ、夏祭りの参道のように人があふれた。
「こういうのって、広まるときはすぐに広まっちゃうんですよね」
と、彼は案外、冷めたように言った。
雑踏の色が花火のリズムで変わり続けている。すると雑踏の中から真っ赤なラブが、ただそれだけは色が変わらずに僕に向かって飛んできた。
「おかしいな」
「どうしたんですか」
「今日は二つ目だ」
「何がです?」
「ラブが。誰だろう……また、使えばいいか」
今夜はもうひと頑張り勉強をするらしいタナカタくんを見送って、僕はもう少しだけキャットストリートを歩こうと思った。花火が終わると、まちは、それこそ祭りの後のように静まり返ってしまった。その雰囲気をもっと感じていたかった。
道の途中、ポール時計の下に人影があった。赤いパーカーのアバターが前に見たときと同じように立っていた。迷子の子どもみたいだ。ぽつんと一人で途方に暮れているようにも見える。
「きみのラブを僕にちょうだい」
と、また、レターチャットを送ってくる。相変わらず、声もなく、エモーションもなかった。
彼も花火を見ていたのだろうか。
無意識のうちに耳をかこうとして、持ち上げて耳に触れようとした手がヘッドフォンに拒まれる。はっとして、少しだけ迷った末にディスプレイを外す。
僕の目の前にあるのは暗闇、静寂、深夜の六畳の洋室だった。
耳の奥にスズキちゃんの舌の感触が残っているようで、触れたら、ありもしないカサブタがはがれて、ぽろぽろと崩れ落ちていくような、そんな気がしていた。
耳をかく。耳の奥のカサブタを想像しながら、同時に、何かが崩れ落ちて、もう、後戻りはできないんだという感覚を思い出していた。
(Now Loading……)
あれはイハラに、最後に会った日のことだ。
高校の卒業式から数日が経った夜、コンビニの駐車場、車止めのブロックに座って、僕たちは、その日は歩き出そうとはせずにいつまでも、そう、いつまでも話し続けていた。
誰かが自動扉を通るたびに流れる入店メロディ。店内から漏れ出た明かり。店の側面に当たる部分にいたから、人目につかない。誰も僕たちを気に留めない。一対のコンクリートブロックに座った僕たちの間にはアルミ缶が一本ずつ。イハラが自分のを持ち上げて、僕の缶にぶつける。僕のは全然減っていなくて、音がにぶかった。
「卒業おめでとう、あと、大学の合格も、おめでとう」
と、イハラがあらたまったように言うから、
「イハラもおめでとう」
と、返す。
「ジュンと会うのもこれで最後かもしれないな」
「え、なんで?」
何も答えないから、「帰ってくるって」と僕は言った。
イハラは、そっか、と小さく笑った。
春の夜は、生ぬるい風と冷えた風が交互に吹いて、混ざり合って、なんだか人肌みたいな心地よさがあった。イハラと、実際以上に近くにいるようで、肌が触れ合っているような感覚さえする。
「ユカちゃんとは、どうするの?」
何かのついでみたいにイハラが言った。
「別れたよ」
「別れた?」
「たまに会いに来ていいよ、そのときはやらせてあげる、なんて言うから、あのヒト、嫌いになっちゃったよ」
イハラは言葉を探すように、足元に目を走らせて、ゆっくりと首を振った。彼は肯定するときも否定するときも、ゆっくりと首を振った。
「人には、いいところも悪いところもそれぞれたくさんあって、足したり引いたり、そうして積み重なったものがその人との思い出でしょ?」
何か大切なことを問うように、彼は僕の目をまっすぐにのぞき込む。
「ねえ、ユカちゃんってどういう人だった?」
イハラに尋ねられると、僕はいつも、本気になって考えていたから、そのときだってすぐにそうして……
(僕は、そのとき、何を思い出しただろう。コンビニスイーツを、時間をかけて選ぶ。陳列棚の前にしゃがみ込んで、じっとしている。そうかと思えば、僕を見上げて、「ねえ、これ買ってよ」といい大人が高校生にねだる。店を出て、僕の前を歩いていく。僕と先生の歩く夜道。アデリーペンギンみたいに両手をふわふわと振って。思い出すのは彼女の背中)
だけど、僕が何か答えようとする前に、イハラは言った。
「今、心に浮かんだこと、いつまでも覚えていて、ずっと忘れないでいられたら、いいよね、きっと」
(手持ち花火の、色がついた細かな火花が僕たちの皮膚に落ちて、その熱が……いや、あんな季節に花火が売っているわけがないのだから、思い出が混ざっているだけだ)
「おれは、きみのことはずっと忘れないよ」
イハラはただそれだけ、言い切って、絶対とか、そういった余計なことを言わないのが、また彼らしかった。
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