第8話
その日はアオイと待ち合わせをしていたわけではなかったが、渋谷までキャットストリートを歩いて帰ることにした。
アサミくんの店で用事をすませ、外に出た。薄く、半透明のベールをかけたような雲がかかり、夏の夜空が美しい夕焼けで始まろうとしていた。それを、のんびりながめて帰ろうと思った。
表参道にかかる歩道橋を渡る前に、つい、いつものローソンに寄ってしまった。特に買わなければいけないものもなく、レジも混んでいたから、店を出ようと振り向く。すると、入口のすぐ外にスズキちゃんが立っていた。
「先輩、私も帰りますから。途中まで一緒に行きましょう」
そう言いながら、店内に入ってくる。
「何か、買うんですか?」
「あー、そうだね。喉、かわかない?」
二人で店の奥にあるドリンクコーナーに移動しながら、
「あれ、靴、履き替えてるの?」
「そうですよ。ぺたんこサンダル。歩きやすいし、かわいくないですか?」
「かわいいね」
そんな話をして、顔を合わせると、僕たちの視線の高さは同じくらい。
「そっか、いっつも店ではヒールだもんね」
高身長のアサミくんと並ぶと忘れがちだけど、スズキちゃんもすらっと手足が長く、ヒールを履けば、僕よりも背が高かった。
立ち止まった僕たちを、中国人の女性二人組が何かしゃべりながら追い越して、ペットボトルのお茶を手に取り、去っていく。レジの前では誰かが小銭を床にぶちまけた。派手な音にもかかわらず、スーツ姿の男性はのろのろとしゃがみ込み、焦る様子もなく拾い始める。店内ラジオが売り出し中の氷菓やスイーツを紹介する。軽快なBGM。電子マネーの決済音。外国人店員がビニールのパーテーションの向こうで声を張り上げる。スズキちゃんは、「何にしようかな……」とつぶやきながら、僕がいつも選ぶ500ミリの缶を手に取る。僕も同じものに手をかけると、「おいしいですよね、これ」「そうだね、おいしい……」うなずきながらレジに進み、二本分の会計をすませる。「ごちそうさまです」とスズキちゃんは缶を捧げ持ちながら自動扉を先に出る。
コンビニの前、歩道にたむろする人々、チューハイや缶コーヒーを飲んだり、喫煙スペースからはみ出してタバコを吸ったり、そのスローな時間と、行き交う人たちの速度が混ざり合って雑然としている。
スズキちゃんは歩道橋の階段を駆け上がって、振り返る。髪色をアッシュ系のオレンジに変えていた。気分ですぐに変えちゃうんです、と言っていたから、もうしばらくしたら、また、変えてしまうのだろう。オレンジ色の前髪が、伸ばしかけなのか、目にかかっている。彼女は顔を振る。髪が揺れて、光をまき散らしているようだ。
遊歩道に入ったところで、二人そろって、缶を開ける。一口目であおり過ぎて、喉の奥で炭酸が鳴っている。
「あれ、ここに」とスズキちゃんが右手で缶を持ちながら人差し指だけを左前方に向ける。「たこ焼き屋さんがありませんでした? なくなっちゃったのかな」
彼女が言う通り、メガネショップの向かいにはたこ焼き屋があったはずだが、シャッターが下りていて、それだけでなく、看板やロゴマーク、メニューボードもなくなっていたから潰れてしまったのかもしれない。
「なくなったと思うと、逆に食べたくなりません?」彼女は缶を右頬につけ、離す。頬についた水滴があごまで伝って、胸元に落ちていく。
「たこ焼きのお口になってきたかも……お好み焼きとか、もんじゃでもいいな。そういえばセンター街にできたもんじゃのお店、テーブルにレモンサワーが出る蛇口がついてるんですよ、すごくないですか? 行ってみたいです、私……」
そのとき、スズキちゃんの言葉をさえぎって、僕たちの頭上で、空を裂く、笛を吹くような音がして、続けて、かわいた破裂音が鳴り響いた。道行く人は思わず空を見上げ、僕とスズキちゃんもそれにならった。見上げていると、今度は立て続けに何発か鳴って、渋谷側の上空で一瞬、光った。笛つきのロケット花火だろうと見当をつけ、どこのバカだろうと小さく笑い、植栽帯の縁のベンチに座り込む。
「誰だろうね」
と、僕は言う。
スズキちゃんは不思議そうな顔で僕を見下ろし、髪をかき上げ、耳にかけ、僕の隣に座る。僕の右腕と彼女の左腕がわずかに触れ合う。
なんとなく空を見上げたままでいた。次の花火を期待しているのかもしれない。遊歩道をスケートボードががなり立てて走り去る。スポーツキャップを目深にかぶった少年が通行人を左右に避けながら渋谷の方へ消えていく。しばらくするとまた、空が光った。今度は遊歩道の先、建物の間から何色かの火花が散ったのが見えた。建物の高さと同じくらいにしか上がらないのか、景色の中に切れ切れと現れるだけだった。
市販の打ち上げ花火で遊んでるんだ……無性に喉がかわき、缶を一気に飲み干す。ぬるくなり始めていて、香料のにおいをより強く感じる。
スズキちゃんを見ると、彼女は缶の縁に口をつけながら僕を見つめていた。目が合って、そのまましゃべり出すから、彼女の声は缶の中に反響した。
「店長が言ってたんですけど、この道は元は川だったって、知ってました? その川は、今はどこに行っちゃったんだろう」
「それは、この道の下に今もまだ……あるのかな?」
「道の下に、なんで川があるんですか?」
どう答えたらいいのか、迷い、考え込んでいると、誰かがばたばたと走ってくる音がした。見渡すと、一人の警察官が僕たちの前を通りかかった。彼は僕に気づくと足を止めた。
「きみたち、いつもここでたむろってるでしょ?」
とがめる口調で言い放った彼に、見覚えはなかった。僕と同い年くらいの、マスクをしているから目元しかわからないが、整った顔立ち、やせ型の、ちょっとモテそうな雰囲気の青年が、いら立ちを隠そうともしていなかった。
一歩、二歩と近づいてくる彼と、そして僕の間に液体が飛んだ。スズキちゃんが缶の中身をぶちまけて、
「私と先輩の、じゃましないでよ。ね、先輩」
そう言いながら、僕の腕をつかんで立ち上がる。スズキちゃんの手の爪が僕の手首の内側の皮膚に深く食い込んで、痛み……というよりも彼女の感情に気づく。
警察官は呆気に取られ、僕たちが立ち去ろうとするのをただ見ていた。駆け出すスズキちゃんに手を引かれながら、遊歩道から道をそれる。最後に振り返ったときには彼も気を取り直して僕たちを追おうとしていたが、胸につけた無線が何か言葉をまくし立て、迷ったあげく、彼はキャットストリートの先に向かって走り始めた。
路地裏に入ってしばらく進んだところで、
「どきどきしましたね」
と、スズキちゃんが僕を見た。ようやく手が解かれた。
そのまま僕たちは何ごともなかったかのように歩き続けた。
「私、何度もこの道を通ったし、これからも、何度も通ると思う、そんな道ってあるじゃないですか」
スズキちゃんは僕に言っているような、あるいは言っていないような、あいまいな口調でしゃべり始める。
「でもね、この道で一度も猫を見たことがないんだよなあ。キャットストリートなのに……こういう裏通りといえば、野良猫だと思うんですよ、私」
急ぐ理由もなかったから、気ままに、立ち止まりながら歩いた。路地は入り組んでいて、奥へ奥へと進んでいくと、自分の居場所に確証を持てなくなってくる。
閉店後の軒先、積まれた段ボールとごみ袋は、夜だ。最近できたパオズを出す店の行列と、その隣のコンドームのポップアップストアは、夕方だ。街角に置かれたデジタルサイネージが映す、通りがかりの人、人、その中に僕とスズキちゃんの姿もある。夜まで開いている花屋の前で止まる。スズキちゃんは店の前に生けられたヒマワリに顔を近づけてにおいをかごうとする。ほとんど消えそうな夕日の色が彼女たちに映って、僕が見ているうちに消えてしまったから、夜だ。
路地裏には住家、表札のかかる一軒家やマンションもある。三階建てのマンションのベランダが通りを向いている。その一つ、二階のベランダの窓が開いていた。レースのカーテンが部屋の中に向かって持ち上がり、風のかたちを描いている。すき間から、部屋の照明が見えた。星型、それは星のかたちをした照明のやわらかな光だった。
「ねえ、私のことも見てくださいね」
耳元でささやかれ、生暖かい吐息がかかった。
意識するより先に何かが触れる。
耳に、その穴に、冷たさと、脳に向かう音。痛み……ではない、まったく別の生々しい感触。
とっさに身を引いて、右を向けば、
「やっと私を見てくれた」
スズキちゃんが唇をなめている。唾液で濡れた舌の先、その感触を知っている。
「もっかい、やりましょうか」
そう言って、すばやくからだを寄せ、右手で僕のあごを、左手で後頭部を押さえ、彼女の舌は僕の耳をうがった。
今度は痛かった。鼓膜を刺すような痛みがあった。突き飛ばすように押しのけると、彼女は笑っていた。
「ごめんなさい、ちょっとした冗談です」と両手を合わせながら、なおも笑う。「やっぱり私、帰りますね」
僕の返事を待たずに彼女は去っていった。耳の穴に触れると濡れていて、感触は、なかなか消えなかった。
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