第7話
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あの頃、イハラと歩いたような夜道はネイバーフッドの中にいくつもあった。夜の住宅街が碁盤の目のようにずっと続いて、自販機、街路灯が落とす明かりの中にいる野良猫の影、それを追ってどこまでも、いつまでも歩き続ける。
響く靴音、僕のだけ。夜道の途中、立ち止まり、自販機のボタンを操作すると雨が降ったりやんだり、BGM、ピアノ音楽が流れたり、星のまたたき、流星群が現れたり、そんなことが自在に起きる。
いつの間にか、「ラブ」が僕の目の前に浮かんでいる。赤いハート型のアイテムが、ずっと前からそこにあったみたいに、お互いにようやく存在に気づいて、目が合ったみたいに、手が届きそうな場所にある。この前、アサミくんからもらった星型のアイテム、「ライク」と似たようなエフェクトで、ラブは僕の周囲を回り始める。
ちょうど交差点に差しかかる。横断歩道の白線の上で、僕はラブと、まるでダンスしているみたいに、一緒になって回って、街路灯のオレンジの明かりと、それを背に受けてできた僕の影と、ラブのエフェクト……BPM、鼓動に合わせるような赤い光の強弱、そうした意識の混ざりの中で手を伸ばし、
「いてっ」
僕の左手、指の先が何かに触れた。
我に返って頭からディスプレイを外す。僕は薄暗い部屋の中にいる。レースカーテンの向こうから入る外光だけが手元を照らしている。かたわらにディスプレイを置き、フローリングの床に寝そべると、思いがけず冷たい。
背を床に、思いきり息を吸って吐けば、腹が上下して、ため息。でも、そんなに気分が悪いわけでもない。続いて、あくびが出る。涙で視界がにじむ。外が明るいってことは、もう朝が近いのかもしれなかった。
ハツカの部屋の壁に手が当たった、ただ、それだけのことで、思いがけず動揺してしまっている。ハツカの部屋? もう、ハツカの荷物なんか一つもなかった。ただの空っぽの部屋だった。フローリングの冷たさの中でさっきまで座っていたあたりだけが、まだわずかな熱を持っていた。
「毎日、ラブが届くんだよ。決まって、一つ。でも、誰が送ってくるのかはわからない。そういう設定みたいなんだけど」
と、アサミくんに会ったタイミングで相談をしてみる。
すると、彼も首をかしげる。
「そいつは妙だね、誰だろう、物好きな……というか、毎日、潜ってるんだ。ハマっちゃってるね、ジュンジュン」
店の奥、レジカウンターの中に僕たちは並び、帳簿を広げている。だけど、しゃべってばっかりで、さっきから作業が進んでいない。
スズキちゃんは客がいない店内を掃除している。店の入口の方から順に陳列棚に、はたきをかけながら、ちらちらと僕たちに視線を向ける。その表情は、かたい。しゃべってばかりの僕たちを怒っているのか、いや、話を振った方がいいのか。
「ジュンくん、じゃなかった、ジュンジュンよ」
アサミくんはなぜかニヤニヤ笑っているだけだ。
「ラブはね、きみが思っている以上に貴重なアイテムなんだよ?」
「うん、そうらしいね。ネイバーに教えてもらったよ」
「へえ、できたんだ」
「まあ、何人か、ね」
そのうちの一人、タナカタくんは「ジュンジュンさん、それってすごいことですよ」とスットンキョウな声で言って、彼のアバターは一拍遅れて大げさに飛び上がるエモーションをした。
自らフェイスクリエイトから始めて完成させたというアバターは青い目と、同じ色で輝く肩まである髪が目を引いた。髪の毛先が、火花が散るように燃えていて、白肌の上で揺れている。中性的な顔立ち、というか、性別なんてないのかもしれなかった。
タナカタくんが最近、人気のワールドを案内してくれるというので、火星に向かって航行中の豪華客船で待ち合わせた。今日は白スーツに身を包んだ彼が、宇宙船と宇宙艦の違い(僕たちが乗っている船は見た目こそ大型のクルーズ船だが、ワープ・ドライブができるから宇宙艦に当たるらしい)や、船内の音声放送で流れているのは操縦士たちの異星語の掛け合いであること、船窓から見える星々は何とかという星団であること、船内には重力があるが、デッキに出ると無重力になり操作に慣れるのが大変だということ……そんなことを一通り説明してくれた後で、僕に毎日、一つのラブが届くという話になった。
「ラブを使ってしか、ワールドクリエイトができないんですから。それで、自分が推してるクリエイターにあげるのが普通ですからね」
以前にも彼に教えてもらったような話だった。アバターのクリエイトに使うライクは一日十個まで他のユーザーにあげられる。だから、よりフランクな使い方ができるアイテムだ。一方でラブは一日一個。僕が思っている以上に、みんなはラブを大切にしていた。
「タナカタくんは推しのクリエイターっているの?」
「うん、このワールドをつくった……SSS、スペースシップシリーズって知りません?」
僕たちは船内を歩いて回った。ラウンジやカジノ、バーカウンター、吹き抜けの大階段まで人であふれている。時おり、タナカタくんにライクを送る人もいて、タナカタくんもライクを返す。
「デッキまで上りましょう。球体の無重力プールがあって、めっちゃすごいから」
幼さの残る声。幼さは、装飾のない言葉。
高校受験があり、その息抜きなのだとか、そういった話を聞いていたから、中学生なのか。知り合ったばかりの頃、交わしたような、「アニキが前に使っていたやつをもらって、ほら、この機械って高いから、同い年くらいのユーザーっていないんですよね」だとか、「ジュンジュンさんって何歳くらいですか……大人だなあ」だとか、そういった何気ない会話で互いを少しずつ彼を知っていくのだった。
豪華客船で遊び回った後でタナカタくんのお気に入りのワールドに移動した。
宇宙船が不時着した夜の島だ。
海辺に月が二つ。
僕たちは宇宙船の中から這い出して、波が寄る砂浜に出た。タナカタくんが波打ち際まで駆けていき、彼の足跡をなぞるように僕も歩く。静かに寄って返る波、砂を踏む音。僕が追いつくと彼は僕たちの前に一面の鏡を表示させた。鏡には月明かりに照らされ海辺に立つ僕たちの姿が映る。タナカタくんの隣にいる僕は小柄な白いロボットだ。僕の足は装甲におおわれたかわいげのない足だった。だけど、砂を踏む感覚、そして、足の五本の指の間を細かいさらさらとした砂が通る感覚を想像している。
タナカタくんは白スーツからコスチュームを変えた。子どもが着るような少し大きめの赤いチャックのパジャマ、同じ柄の帽子、先端のボンボンがかわいらしい。
僕たちは僕たちの姿を見ながら話を続ける。
「そういえば、お兄さんがいるんだっけ?」
「……アニキもこのゲーム、してたんですよ。それで、アニキがつくったワールドがあるんです。また今度、行きましょう」
今すぐに、と言わないのが、のんびりかまえている彼らしかった。
「ねえ、ジュンジュンさん、僕たちって、求めていないわけでもないし、さみしくないわけでもないじゃないですか。そういう、ない、と、ない、とでカタチづくられて、影と影が重なって、影絵みたいに何かを示して、それは偶然、ラブのカタチなんですよ。そういうことをね、たまーに、考えたりするんですけど」
正しいとか間違っているとかそういうのではなくて、ただ、互いの存在を確かめるような話を彼は時おりして、勝手なもので、そのまま寝落ちしてしまうことが多かった。言葉が途切れ出すのが、その合図みたいなもので、もういくつか話をしているうちに本当に寝落ちをしてしまったようだ。小さな寝息が聞こえ始めた。彼は動きを止め、ただ静かに海を見ている。まばたきはする。オートの設定だから。
この世界に限っていえば、夜は明けることがないのだから、何の問題があるのだろう、それでまったくかまわないのかもしれなかった。目を覚ましたとき、彼の目の前にあるものは、いまだ夜だ。
さて、僕の目の前には夜の海と、波と、円周の異なる二つの月、月面には何の模様が見える? かたわらには寝息、静かでやわらかな呼吸の繰り返し。
人の寝息を聞いていると、不思議なもので、つられて眠気を覚える。
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たとえば……そう、たとえば、こんなときに、先生のことを思い出すんだ。
先生のマンションで目が覚める。
すると、日曜の朝の幸福な気配がした。
開けたまま、レースのカーテンが引かれているだけの窓辺に目をやって、朝日がつくるベランダの手すりや洗濯さおの影がレースの上に乗って、風が優しく吹いて、膨らんだり、しぼんだり、風のやわらかさ。端から端に、順にめくれ上がり、寄せては返す、水辺の波のような。レースが動くと影も動く。自然が起こす繰り返しに目を向けている。
しばらくして、眠っていた先生が目を覚まし、
「ねえ、そこにいるよね」
と、言う。
同じベッドにいながら、繰り返し、僕に尋ねる。
起き抜けの、肌はいつもより敏感で、甘えてもたれてくる先生の髪の毛先がこそばゆい。次第に、からだが朝の空気になじんで、抱きしめ合った肌と肌が心地よく触れて、重なった。先生の胸に顔を押しつけると、いっそう強く、香った。
たとえば……口内炎を潰したときに口の中に広がった血の味を甘く感じて、「あ、血が甘い」と言ったら先生は当然のように僕に口づけて、あまつさえ、舌まで入れてきて、「ほんとだ、甘いね」となんてことないように言う。口の中に置き去りになったものが、すべて、甘く残っている。
「きみのこと、いいやつだから好きになったわけでもないんだよね」
と、先生が言う。そして、何かを思い出したように笑う。
先生が笑うと、一瞬、自分が笑われたような気がして、そう思ってしまったことを恥ずかしく感じて、わざと生意気なことを言ってみたりする。
「ユカちゃん、白髪あるよ」
と、言ってみたり。
すると、
「えー、抜いて抜いて」
と、屈託なく笑う。その笑顔。
それでもやっぱり、先生が笑うと嬉しくなって、だから、この喜びは信じてよかったのかもしれない。
「ねえ、ユカちゃんとさ、休みの日に、何するの?」
と、イハラに聞かれて、
「んー、ユカちゃんちに泊まることも多くて、そのまま昼まで寝てたり、夕方になっても部屋でだらだらしてたり……それで、昼と夜が逆転しちゃうんだよな」
そう言いながら、思い出した。
この前は、珍しく、待ち合わせて買い物に行った。先生がその日買ったワンピースは、夏色の、少しうらやましくなるくらい、彼女に似合う色だった。それは、イハラには言わないでいた。
イハラとはその夜、花火をしていた。コンビニで買ってきたファミリーセットの手持ち花火を川沿いの遊歩道に広げ、イハラの百円ライターで火をつけあった。
「いい休日っていうのは、学校や仕事じゃないことで、よく疲れ、そして早く寝ることだと思う」
と、イハラが言う。
イハラが着火したライターの火の先端に僕の花火を近づける。と、ふいに白い火花が放たれる。ライターのクリアカラーのオレンジの中に映り込む火花、立ち上る煙、風上に立とうと、ばたばたと走り回って、靴音が響いている。
「イハラって大人っぽいよな。何ていうか、歳が二、三個上みたいだ」
「そう?」
また、静かに微笑む。声を上げずに表情だけで笑っている。
「別に、何も変わらないよ」
とだけ言ったが、しばらくして、
「しいて挙げるとすればね」
と、続ける。
「おれはね、人のことをよく見るようにしているのかもしれない。何か話す前に見て、あるいは話した後に見て。いつからだろう、そういうことが習慣づいているのかもしれない」
彼が手に取った花火の先端に、僕のを近づける。
「何か、発しているだけだと、子どもっぽいのかもね」とイハラがつぶやくのと同時に僕の花火は終わってしまった。
彼はまたライターを灯す。彼の手元から青い火花が放たれる。持ち替えて、川の方に向ける。
川岸のステンレスの手すり、銀色に火花が映る。さらに、高く掲げる。川面に向けて放物線を描きながら、しずくみたいな火花。
「おれが言ったのは、まさにこういうことなんだよ。何か発しているだけの子どもっぽさ。いったん光れば、終わるまで……終わらないだろ?」
話しながら、イハラはゆっくりと首を振った。
「たとえば……あれだよ、あれ」
彼の花火が光り終える。
燃え尽きた花火の先端には熱の色が残っている。それが、宙に光の線を残しながら、僕の前で揺れている。
かまわず彼は振り回し、川にかかる橋を指し示した。県道が通る橋の上は少し渋滞しているようだ。等間隔の街路灯の足元で、車の赤いテールランプが不ぞろいに連なっている。
「人に魅せるためってわけじゃない。そういう光の方が、おれはきれいに見えるんだよ」
そう言って、イハラは、また首を振る。
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