第6話

 いつも買っているレモンチューハイをアオイの分も買っていった。缶を一つずつ両手に持っていると指の先から冷たさが伝わってくる。かじかんで、持っていられなくなる。意味があるのかわからないが、左右を持ち替えたり、握り方を変えてみたりして、指先の冷たさをごまかしながら、だいたいいつも二人で座っているベンチが空いていたから、腰かけ、ようやく缶を置く。

「また、それ飲んでる」

 と、しばらくして姿を現したアオイが笑う。

 確かに、僕が選ぶのはいつもこの缶だな、と気づく。飲み始めていた方とは別の缶をアオイに差し出しながら、

「習慣と呼ぶまでもなくて、ほとんど何も考えないで、選んじゃうんだな」

 と、言い訳のようにつぶやく。

「でもさ、あのローソンに寄って、飲み物を買わないと、なんだか、本当だって気がしなくて。別にあの場所にあるのがたまたまローソンだったってだけで、セブンでもファミマでも、ミニストップだって全然いいんだけど」

 僕が続けざまにだらだらと話すと、アオイはうなずいてくれる。

「ミニストップに、よく寄ったよね」

 僕たちの高校の最寄りのコンビニはミニストップだったから、アオイが言うように、放課後、クラスメイトとよく寄っていた。特に何をするでもなく、たぶん、ただこのまま家に帰ってしまうだけではもったいない時間なのだとみんな感じていて、僕はそうした時間の中でストロベリーのソフトクリームを食べるのが好きだった。ストロベリーソフトクリームの、あのピンク色の通りの味と、少し酸味のあるにおいと、続けて当然のように、また、先生のことが思い浮かんだ。

 僕が見ているものとは関係なく、アオイは僕にゲームの話をせがんだ。前に会ったときに、知り合いにVRゲームの機器をもらったのだと話して以来、僕がただワールドを歩き回っているという話を聞くのが、どうも気に入ったみたいだ。

「最近は、どういうワールドがはやってるの?」

「竜の背、紅葉が降り終わらない秋色の島、海底にできた遊園地、そのメリーゴーランド、それに、宇宙に浮かぶ豪華客船。そういう、いかにもゲーム世界っていうのが多いかな。人気のクリエイターっていうのがいて、みんな応援してるんだけど、新作が出れば人が集まるし、僕も興味がないわけじゃなくて、行ってみたりもするけど、個人的にはもう少し心穏やかに散歩ができるようなワールドが好きなんだよね。

 人気のクリエイターのワールド以外は、どこも過疎っていて、だいたいは誰もいないんだよ。RPGと違って、NPCがいるわけでもないし、誰もいない世界を僕だけが歩いているから……」

「それってさみしくない? 誰かとフレンドになったりしてないの?」

「ネイバー、ね。何人かなったけど、日本人が集まるワールドがあったりするから。でもね、別にいいんだよ。一人でいろいろ見て回るのが好きなんだよ」

「昔っから、そういうとこ、あるよね。好きなもの、好きなやり方を信じて疑わないような。あ、別に、いい意味でね」

 僕たちの言葉が途切れる。アオイは缶をベンチに置いて、夜空を仰ぎ、伸びをする。彼女の、すっとそらした喉が白い。

 そのとき、僕たちの目の前を通りかかった女性がいて、偶然、僕と彼女はばっちりと目が合った。レモンイエローのパンツがよく似合っていて、自分を若く見せようとしていないのが感じ取れる、中年の女性だった。

 彼女は、僕と目が合ったまま、そらさないで、「ねえ……」と声をかけてきた。足を止め、ごく自然な成り行きのようにからだを僕たちに向けた。

「きみたち……そういうのってさあ、路上飲み、っていうんでしょう? そういうのってさあ、いいよね」僕かアオイの、どちらかの知り合いなんじゃないか。それくらい、フランクな、「いいよね」を何度か繰り返した。

 アオイは、

「ピンクエリマキトカゲ」

 と、つぶやき、小さく笑った。

「……は?」と僕は思わず言ってしまい、あらためて見れば、話しかけてきた女性のあごにはピンク色の布マスクがだらしなくかかっていた。女性はアオイを見て、なぜか笑顔をつくり、その拍子に片方のゴムひもが耳から取れた。左耳にだけかかったマスク、そんなことを気にも留めず、直そうともしない。酔っ払っているのか……だけど、女性はキャットストリートで酔っ払い、はしゃぐにしては年老いているように見えた。

「いいよね、うらやましいよね」

 と、最後にもう一度、言って、彼女は去っていった。

 アオイは何ごともなかったかのように新しい缶を開けた。勢いをつけてあおるから、また、そらした喉が見えた。

「だからさ……キャットストリートだって再現されてるんだけど、誰もいないからさ、それがいいんだよ。東京に、誰もいない場所なんかないだろ?」

 と、僕も話を続けた。

(Now Loading……)

 たとえば……そう、たとえば、僕がさっき寄ってきたローソンだって(わざわざ、こんな丁寧に、いったい誰がつくったのだろうか)、ネイバーフッドの世界には存在していた。陳列棚には最新の商品がカラフルに並び、レジ回りのホットスナック、タバコのショーケース、電子レンジ、電気ポット、天井から下がるビラまで忠実に再現されている。

 無人のコンビニから出る。ひと気のない夜道をあてどもなく、気ままに歩く。ワールドには果てがない。夜ごと、眠くなるまで、散歩をするみたいに、ワールドを歩く。

 ずいぶん前にも、そんなようなことをしていた、でも、そのときは一人じゃなかった。

 その相手を思い出す。

 イハラも、夜の散歩が好きだった。


 僕が立ち寄った深夜のファミマで、イハラは雑誌コーナーの隅に座り込み、並べられたばかりの「週刊少年サンデー」を読んでいた。

 僕とイハラは隣のクラスで、なんとなく、互いの顔は知っていて、だからイハラと目が合った僕は声をかけようと窓際を進んだ。ホットスナックを揚げるにおいがした。数人の男女のグループが自動扉を入ってきて(たぶん、近くに大学があったから、そこの学生なのだろう)、店内によく響く笑い声を上げながら、僕とイハラの後ろを通り、ドリンクコーナーから菓子やアイスを求めて散らばり、「私、ファミチキ買おー」「え、じゃあ、おれもー」などと騒ぎ始めた。

 僕とイハラはどちらからともなく店を出て、広々とした駐車場を抜けた。駐車場にはエンジンがかかったままの軽自動車が停まっていた。窓が、前も後ろも開いて、車内からはEDMが何の配慮もない大音量で流れていた。

 歩道を、肩を並べて歩き出した。幹線道路に面した歩道だったから、すぐ隣を走り抜ける車、スポーツカーや大型のトラックや、大きな質量を持った鉄のかたまりの気配がした。暑い夜だった。脇腹を汗が伝って落ちていった。

「いつも、だいたいこの時間なんだ、バイトから帰るのがさ」

 と、イハラが言った。

「こんな夜遅くに?」

「母さんの店を手伝ってるんだ」

 学校には内緒だとか、そういった余計なことは言わなかった。イハラから、タバコのにおいがした。彼は、学校ではいつも眠たそうで、たまに来ないときだってあった。火曜の深夜、日付が変わる頃、指の先が雑誌のインクで黒くなっている。そんな彼が、本当の彼なのかもしれなかった。

 何台かの車が猛スピードで走り去っていき、その後の静けさをよりいっそう強めた。道を折れて進んでいった。住宅街に続いていた。

 僕の家を目指していたわけではなく、イハラの家を目指していたわけでもなく、ただ、デタラメに歩き続けていた。

 途中、自販機で缶のコーラを買って、二人で回し飲みをするときに、少し、手が触れた。彼の手は思いがけず乾燥している。彼の手をなで回したわけでもないのに、手の甲、指の関節にあるヒビやササクレの感触までする。あるいは、さっきまで同じ缶の中に入っていたコーラの深夜によく合う甘さが僕とイハラの両方の舌の上に残ったままでいる感触がする。

 住宅街を過ぎて、駅前の道路沿い、吉野家のオレンジの看板に引かれて、空腹なわけでもないのに、店に入った。

 入口からすぐにカウンターが一直線に伸びていて、その向かいにテーブル席が三つ。駅前だからか、小さな店だった。

 奥のテーブルにからだをうずめる。二つ隣りのテーブルにはギターかベースを壁に立てかけたバンドサークルらしい学生のグループ。カウンターには、入口近くのレジ横にホストっぽい男が一人、席を開けて、カップルの男女。カップルの女が、「学生の頃、親にどれだけ怒られたと思う? だからわかるんだけど……」と隣の男に言って、一方で男二人、女一人のバンドグループは、男が、「あの人はさー」と口火を切る。

「自分の都合のいい付き合いしか、してこなかったんだよな。本当に怒った人に対峙したことがない、そういったことから……そうなる前に、上手に逃げてきたんだな」

 店内を漂う牛丼の濃いにおいに混ざる香水、花の香りを煮詰めたような甘い女物の。

 僕たちが注文した牛丼の並盛を店員が運んでくる。一度、立ち去り、また来て、プラスチックのコップを僕とイハラの前に一つずつ置いていく。口をつけるとお冷ではなく、薄い麦茶。

 イハラは牛丼に次々と紅ショウガを入れながら、食べるのが早かった。食べ終え、無表情に店内を見渡して、目が合うと、「あ、ゆっくり食べなよ」と言った。「ねえ、牛丼屋の紅ショウガって、目薬の味に、似てない?」とも言った。

 カウンターのホストの男が席を立ち、彼の背を見送りながら、

「誰かと食べるとご飯はおいしいね」

 と、イハラがつぶやく。

 その言葉の意味について考えこんでしまい、ついでに先生も同じようなことを言っていたような気がし始めて、本当だったら、「そうだな」と、ただそれだけでよかったかもしれない返事をしそびれたまま妙に間が空いてしまったから、とっさに僕は、「また来よう」とかろうじて、それだけ言った。

 イハラは嬉しそうに、子どもみたいにむじゃきな声を上げて笑った。それは珍しいことで、イハラは年相応の、その頃の年代によくあるバカ笑いみたいなものは、しなくて、ただ静かに微笑んでいる印象が強かったから、彼の、その、ついうっかりこぼれ出てしまったような笑顔が、意外で、だからなんだか、僕もつられて嬉しくなった。

 そのとき、イハラの目元の笑いジワに気づく。ついさっきまではなかったはずだ。できたばかりのような、まだ薄っすらとした線が、しかし確かに刻まれていて、僕が見ているうちには消えなかった。

 カップルが席を立ち、バンドグループも席を立ち、店内には僕たちだけになった。

 イハラは黙っていても、何か話をしていても、同じだけくつろいでいるようだった。手持ちぶさたにスマホをいじるでもなく、そうかといってあわてて話題を探したり、言葉をつなぐ必要を感じていないようだった。

 そうか、イハラと会うのは夜がいい。そう思い至って、それからタイミングが合えば、バイト帰りのイハラと待ち合わせをして、少し散歩をするようになった。

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