第5話
その後もアサミくんにはいくつかの他のゲームを教えてもらったが、結局、気に入ったのは無数にあるワールドをただ歩き回るだけのゲーム、「ネイバーフッド」だった。アカウントを新しくつくり、アサミくんとは「ネイバー」と呼ばれる関係になった。互いの家にいながら何度か遊んでみたが、彼はすっかり飽きているらしく、次第に一人でワールドをめぐるようになった。
ユーザーは世界中にいて、ボイスチャットやレターチャットには翻訳機能もついていたから、誰とでもコミュニケーションが取れるというのがこのゲームのウリらしかった。
それに、ユーザーはアバターやワールドを自由につくることができた。だから、世界中のユーザーがつくったワールドは、それこそ星の数ほどあって、一人で探索をし続けるというのも楽しみ方の一つだった。
たとえば、アサミくんと訪れた、都心の夜景を見下ろせるマンションの一室。隣の部屋、そのまた隣の部屋とどこまでも続いて、途中に宙に浮かぶ光るペンがあったり(それは宙に光の線を描くことができる)、壁の一面は鏡に変わったり(どのワールドにも必ず鏡があった)、そして鏡は僕が選んだ小柄な白いロボットが勝手気ままに振る舞う様子を映した。
夜景をずっと見ていた。そういう細工がしてあるのだろうか、時間が経つにつれて夜景の奥に数を増す高層のビル群。見続けていると目のピントが合わなくなって、夜景は溶けて、不確かなものになっていく。
ビルの上っ面だけが赤く点滅して、歪な地平線をつくっている。
都会の夜景の本質は赤く点滅する光なのだと気づく。再現された航空障害灯は点滅し続け(各々のタイミングで、好きなように)、自身の存在を示し続けている。
ただ静かに夜景を見ている。奇妙な安心感があった。森の中で木々が揺れて木の葉が鳴る。小川のせせらぎを聞いている。そういった大きな自然の中にいるのと同じ感覚があった。
「あれでしょ? ゲームの中に入り込んだみたいな感覚になるんでしょ?」
と、アオイもVRゲームのことは知っているようで、
「へー、そのままくれたんだ。あれってめっちゃ高くない? 気前がいいね、その人」
と、感心してみせた。
売るのもなんか違う気がしてさ、とアサミくんは言って、それは、しなくてもいい言い訳のように僕には聞こえて、だからアオイにはそれ以上、何も言わなかった。
「せっかくだから、もっと派手なゲームやりなよ」
「やってみたんだけど……でもね、ワールドを隅々まで歩くんだ。散歩をしているといってもいい、眠くなるまでね、ずっと。それがいいんだよ」
僕が言うと、アオイは「ふーん」とうなるように言って首をかしげた。
自分の好きなようにワールドを選んでワープを繰り返す。
ある夜にたどり着いたそのワールドは雨が降り続いていた。ワープを終えると僕は車の助手席に座っていて(アバターによって視線の高さまで変わるようで)、フロントガラスが少し見上げるような位置にあった(まるで、子どもの頃の記憶のようだ)。
フロントガラスを流れる水がおおっている。水滴は集まり、ばらけて、散っていく。森を通るハイウェイの途中にいるようだった。左右に木々が、前後にはどこまでも伸びていく幅員の広い道路がある。
車を降りると、乗っていたのは黒のワンボックスカーだとわかる。視界が悪く、外灯の明かりが車体を照らしている。雨に濡れた車体の上を水滴が横向きに左から右へ、生き物みたいに流れていく。だから、強い風が吹きつけているのだとわかって、僕の皮膚は風を、雨粒を、感じ始める。
打ちつける雨音が次第に強くなる。
不思議と先生のことを思い出した。
雨音のすき間にあの日の僕たちがいるみたいに、過去のあるシーンがよみがえってきた。
雨が降り始めると決まって耳鳴りがして、それがどうにもやまなくて、授業を抜けて保健室の戸を引いた。明かりが消えて、カーテンも引かれていたから、室内は暗かった。先生も、誰もいないんだと思って、勝手にベッドに横になろうとして、驚いた。廊下から漏れて入る蛍光灯の明かりでベッドの上に影ができていて、その影が身じろぎをした。
「ユカちゃん、どいてよ。寝たいんだけど」
と、影に向かって声をかけた。
「ああ、うん、雨だもんね」と彼女は答える。「いいよ」
シーツと薄手のタオルケットと、先生の白衣がこすれ合って、しゃらしゃらと音がして、ベッドの上に僕の分のスペースができた。潜り込むと、「あら、冷たい」「うん」「あったかい?」「……うん」先生は僕の両手を太ももの間に挟んだ。ベッドの中は彼女の眠りが残っているようで温かだった。
目が慣れてきた。ちょうど目の間に、先生のまぶたがある。彼女のアイメイク……アイシャドウのラメが暗闇の中でかすかに光を反射させている。やっぱり休みの日と職場ではメイクの仕方も変わるんだな、なんてことを考えていた。
先生が眠たげに息を漏らす。息づかいに感じる彼女のくつろぎに嬉しくなる。先生は目を閉じていた。穏やかで深い呼吸。肩がやわらかに上下する。時間が経つにつれて解像度が増していく。顔の輪郭から、まずは口元、ちっちゃな鼻。乱れた前髪が彼女の頬にかかって、二人きりでいるときの、むずがゆさをかき立てる。
口元は薄く開かれ、かえって目が離せない。唇の間から歯も見える。唾液で濡れているのか、艶やかに光を帯びている。
いつだったか、いたずらに、指を彼女の口に入れて、歯の感触を確かめたことがあった。口の中というのはしばらく開いているとエナメル質がすぐに乾いてきて、見た目にはわかりづらい歯の表面の細かな凹凸が感じられるようになる。一方で、舌の裏側に唾液が溜まってきて、こらえきれずに笑ってしまった先生の口角から、少しこぼれた。そんなことを思い出しながら右の人差し指で彼女の上唇に触れてみると、次の瞬間、薄く開いていた口が大きく開かれ、唇で挟まれた。
僕がする、遊びに付き合ってくれている。
彼女の胸に向かって頭を寄せて、抱きしめられるままに白衣に顔をうずめた。かたい生地の感触と、業務用の洗濯洗剤のにおいと、その中に確かに感じるやわらかなイメージ。やわらかさはイメージで、想像をともなって僕の頬に当たる。白衣の前ボタンをはずして、そのすき間から右手を慎重に潜り込ませる。白衣の中は薄いブラウス。先生のマンションの窓際に吊るされていたベージュのブラウス。
優しく、あくまで優しく、波を立てないで水中に潜り込もうとするみたいに、僕の右手は先生の服の中に入っていく。みぞおち、肋骨、脇腹をゆっくり移動して、背骨の、一段一段を上っていく。中指の腹で背をなでると、ふっ、と声を漏らして……笑ったのか?
先生は、いつだって、少し笑うと伏し目になって、本当に笑うと僕を見上げて、僕の口元に優しく触れた。
彼女を見つめている僕のまなざしよりも、右の中指の腹の部分、感覚の集合体や、あるいは彼女に甘えて顔をうずめたときの僕の右頬、あるいは彼女を求めて息を深く吸い込んだ、そのときの鼻腔の方が、よほど彼女を感じていたのかもしれなかった。
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