第3話
通りに出ると日はすっかり暮れていて、街路灯に照らされた夜道が濡れたような白い光を映していた。ローソンに寄って、適当に選んだレモンチューハイを買い、歩道橋で表参道を渡る。キャットストリートに入れば、遠くに渋谷のビル群が見える。それに、アパレルショップから漏れて通りを照らす明かり、ブランドロゴの照明、行き交う人々がにぎやかな夜をつくっていた。
通りの向こう側から歩いてくるアオイの姿を見つけ、チューハイの缶を持った方の手を高く上げる。缶についていた水滴が数滴、地面に落ちていった。彼女も僕に気づいたようで、何か返事をする代わりに持っていた缶のプルタブを開けた。開けた拍子に少し泡が吹き出し、アオイはのんきそうに笑った。
僕たちは遊歩道の柵にもたれて、しゃべり始める。
「あれ、お前、タバコは吸わないの?」
「辞めたの。今、付き合ってる人がタバコ、嫌いだから」
「あらそうですか」
僕のそっけない言葉に、アオイはまた、のんきそうに笑う。口を大きく開け広げて、だから健康そうな桃色の舌がよく見えた。彼女の手には最近、はまっているらしいクラフトビールの缶が握られている。ミヤシタパークに寄って見かけたというその缶のラベルには男女のイラストレーションがシンプルな線と子どもの塗り絵のような自由な色合いで描かれていた。缶の側面で何ごとかをまくし立てあっている男と女。彼らの顔をおおうように、小指のリングと涼しげなレモン色のネイルで飾られたアオイの右手がかぶさっている。
アオイは職場のある渋谷の道玄坂からスクランブル交差点、ミヤシタパークを抜け、キャットストリートをゆっくりと歩いてくるところで僕と落ち合う。この「落ち合う」というのが彼女の好きな言い回しだった。
一本か二本、自分で缶のお酒を買ってきて、気が向けばスナック菓子を買ってきたりもする。
そして、「これがなくなるまでね」を合言葉に僕たちは遊歩道の柵にもたれかかり、道路の段差に腰をかけ、花壇や車止め、目についたものの上にしゃがみ込み、あるいは地べたにそのまま尻をつけて、だらしなく、まるで部活終わりの学生が校庭に座り込んでいつまで経っても動かないような、あの気だるい感じ。
まだ人通りはあるが、昼間ほどじゃない。昼間ほど、行き交う人たちの歩くスピードは速くない。立ち話が終わらないやつらがずっといて、この場所の時間すらも止めてしまっているような。
隣にあるたこ焼き屋の兄ちゃんがアオイに声をかける。彼女はまんまと買ってしまう。できたてだったのか、「はっふい、はっふい」と言いながら、それでも食べ続けるから、「めっちゃうける」と無表情で、スマホの文字列を打っているような言葉で僕は答えてしまっている。
映像の編集のような仕事をしていると言っていた。本当はすべての仕事がリモートワークでできるのだが、時おり、あえて用事をつくって会社がある渋谷まで来るらしい。その数回に一度、気まぐれに、僕に声をかけてみる。
「やっぱり、生身のからだで会わないとね」と彼女は言う。同棲を始めたばかりの恋人もリモートワークが多く、家にいると息が詰まることがあるみたいだ。
路上飲みのダイゴミは手元にあるものでやるだけ、ということだった。わざわざ買い足しにコンビニまで戻らず、今あるものがなくなれば、さっさと帰ってしまう。
一度だけ、その約束(と僕が一方的に思い込んでいるもの)が破られそうなときがあって、「今日は帰りたくないな」と誘われたことがあった。でも、ちょうどそのとき、缶を飲み干した。僕はそのまま帰った。たとえば、もう一本、何かを買い足して、たとえば二人で円山町の方まで歩いていって、たとえばどこか適当なホテルに入ったとして、し終えた後に、何を話せばいいのか。それが、わからなかったから。
「そういえば、イハラくん、結婚するんだってね」
ふいにアオイが言った。
「え、そうなんだ」
彼女にとってはなんてことない、世間話のはずだった。少なくとも、僕を見返すまなざしはいつもと変わらない。外灯がまぶしいのか、眠たいのか、目が合うと薄く細めてみせる、彼女のいつものやり方。
「誰と?」
「さあ、同じ会社の人って聞いたけど。え? 本人から聞いてないの? あんたら、仲良かったじゃない」
「聞いてないし、というか、卒業してから会ってないんだ」
「そっかあ……同窓会にも来てなかったもんね。私もね、この前、実家帰ったときにたまたま駅で会ってね。向こうから、あれ、アオイハルカ? って言われて。なんでああいうときってフルネームで呼ぶんだろう、みんな。
また、同窓会やりたいよね。ジュンも、ちゃんと顔出すんだよ? 成人式の後に、集まったっきりじゃん。
別に集まるのが嫌ってわけじゃないんでしょ? ユカちゃん先生とあんたが付き合ってたのなんて、昔っからみんなが知ってたんだから。今さら何も言われないって」
アオイは缶に口をつけた。その拍子に彼女の指に沿って缶がへこんだ。浅く傾けて、ゆっくりと喉に流し込んでいる。行き交う人に投げていた彼女の視線が僕たちに向かって近づいてくる人影に向いた。警察官の制服を着た二人の男だった。
「あの人たち、マスクして、暑くないのかな」とアオイがつぶやく。
「確かに」
特に片方は、サイズが合っていないのか、半そでの制服がぱつぱつに張って、胸元と腋には汗が染みていた。帽子の中は蒸れていることが容易に想像できた。額に溜まった汗は通りの照明に照らされて、それ自体、夜景の一部になっていた。
「たむろってないで、早く帰りなさい」
と、夜景が言った。
もう片方の警察官はとても若く、ハタチか、あるいはそれよりも幼く見えた。夜景が僕たちにすごんでいる間、彼は一応、その隣に立って、アオイの足に目をやっていた。ショートパンツから伸びた足はもたれていた柵を離れ、少しだけ僕に近寄った。
僕たちが黙ったままでいると、彼らももう何も言わず、来たときとは反対の、渋谷の方に向かって去っていった。
アオイがため息を漏らす。
「友だちとしゃべってるだけなんだから、いいじゃんね」
「そうだね」
僕の返事に満足そうにうなずいて、
「ねえ、ちょっと歩かない?」
と、誘う。
僕は柵に座ったまま、
「ちょっと待って。これ、飲んでから」
そう言って、もう、半分も残っていない缶を掲げてみせる。
アオイは無感動に首をかしげて、僕の目の前で行ったり来たりを繰り返しながら、誰に言うでもなく、
「友だち……私が思う友だちって、定義が広くてさーあ、飲み友だちとか、SNSの友だちとか、セックスをする友だち、何か、経験や時間を共有していればそれだけで……」
あるいは、夜道に向かってつぶやくように、
「不思議だよね、あのときのユカちゃんと私たち、同い年になってるんだよ」
と、そんなことを言いながら、僕が飲み終わるのを待っていた。
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