第142話 少女は後悔する

「ふぅ……特に問題はなさそうだね」


「皆楽しそうにしてます。どれこれも会長のおかげですね」


 キャンプファイヤーを囲み楽しそうに踊る人、それを見て文化祭の思い出に浸る人、そして文化祭をきっかけに仲良くなった人と交流を深め、あるいは特別な関係になった者同士で親睦を深める人。様々な生徒の姿を見ながら私は自分の肩に重くのしかかっていた責任という名の錘を一つずつゆっくりと外していく。


「私は会長としての仕事しかしていない、今回の文化祭が成功に終わったのは皆が懸命に働いてくれたおかげさ」


 今回の文化祭は目立ったトラブルもなく、無事に成功を収めることが出来た。生徒会長としての最後の仕事で有終の美を飾れたのはとても嬉しい事だ。これで心置きなく生徒会を辞めることが出来る。


「ふぅ……私も引退かぁ」


「本当にお疲れ様です、会長」


「こんな私についてきてくれて本当にありがとう──────っと……茜?」

 

 今まで私についてきてくれた副会長へ感謝の言葉を伝えようとしたその瞬間、私の胸に一人の女子生徒が飛び込んでくる。突然の出来事に頭は一瞬真っ白になったが、いつも間近で見ていた小豆色の髪を視界に捉えたことで私の頭は冷静さを取り戻す。


 抱き着いて生きたのは茜だ。しかし、私が名前を呼んでも彼女は一切の反応を見せずただ私の身体に顔を埋めている。


「すまない、少しだけこの場を任せてもいいかな?」


「はい、任せてください」


「ありがとう」

 

 私は快く承諾してくれた副会長に感謝の言葉を述べ、茜の手をぎゅっと握って人気のない場所へと移動する。


「ここなら誰も来ないだろう……それで茜、一体どうしたんだい?」


 普段はあまり弱々しい態度を見せない茜が、私以外の人がいる前でこんな態度を取るのはかなり珍しい。だがこんな様子になってしまった原因には心当たりがある。おそらく晴翔君の事だろう。


「よしよし、ゆっくりでいいからね」


 小さく肩を震わせる茜を優しく抱きしめる。親友のこんな姿を見るのは何年ぶりだろう、初めてではないことは確かなのだが、こんなに感情を爆発させる茜を見るのは如何せん久しぶり過ぎて思い出すことが出来ない。


「蓮……たし……わたし……」


「……うん」


「怖くて……前に……進めなかった」






 


 遡ること数分前、私は高校に入って一番といっても過言ではないほど楽しく、幸せな気持ちで溢れていた。自分の好きな人と触れ合い、こんなにも近い距離で笑い合うことが出来て、まるで夢の中に迷い込んじゃったのかと思ってしまうほど幸せな気持ちが溢れていた。


 しかしここは現実の世界。楽しい時間、幸せな時間というものにもいつかは終わりがやって来てしまう。私たちの体を動かしていた音楽もピタリと止まり、私の身体に触れていた晴翔君の手がそっと離れていってしまう。


 分かってる。晴翔君に思いを伝えるなら今ここしかないって。


 自分の心に訪れた寂寥感を塗りつぶしてしまうほどのドキドキと圧迫感が凄まじい速度でやって来る。先ほどまでの心地よさはどこへやら、私は今までに感じたことの無い緊張感と恐怖に染め上げられていく。


 体が言う事を聞かない。腕も足もまるで石になってしまったのではないかと思うほど動かないし、自分は今山頂に居るのかと錯覚してしまうほど呼吸がしづらい。


 それでも前に進みたい。私は晴翔君と特別な関係になりたい。このまま先輩後輩のままの関係じゃ私は満足できない。進まないと、進めないと私はきっとこの先後悔という名の底なし沼に飲み込まれていく。


 言うんだ。前に進むんだ。私のこの想いを、好きだという気持ちを、言葉にして晴翔君に伝えるんだ。


「ねぇ、晴翔君。私─────すごく楽しかった。晴翔君と一緒に踊れてよかったよ」


 違う、違う違う違う違う違う。


「俺も茜先輩と踊れて楽しかったです」


 違うの。この言葉じゃないの。私が言いたかったのは……伝えたかった言葉はこれじゃないの。


「さ、戻りましょう──────って茜先輩!?」


 私は晴翔君を置いて明後日の方向へと歩き出し、走った。この自分の選択が悪手中の悪手であるのは分かっている。それでも今の私にはこの逃げるという選択肢以外を選ぶ余裕が無かった。


 涙で目の前が滲んでいく。自分のことをナイフで突き刺し、鈍器で脳みそが壊れるまで頭を殴りたくなる自傷欲求と胸の辺りでぐるぐると回る悪心をグッと飲み込み足を動かす。  


 涙を拭い、少しだけ見やすくなった双眸が捉えたのは誰かと話している蓮の姿。迷惑をかけるのは良くないと自分の理性が諭してくるが、私はそんな理性のアドバイスを無視し蓮の胸へと飛び込んだ。


 蓮は私の異常を察してくれたのかすぐさま場所を移し、私をそっと抱きしめてくれた。


「ここなら誰も来ないだろう……それで茜、一体どうしたんだい?」


 彼女の言葉によって先ほどの情景がフラッシュバックする。言えなかった。「好き」という短い言葉がどうしても喉を通らなかった。その事実に普段は正常に機能しているダムが決壊し涙が止まらなくなる。


「わたし……怖くて……前に……進めなかった」


 涙が止まらない中、私はゆっくりと言葉を漏らす。慰めて欲しい、私を優しく包み込んで欲しいという気持ちと、私を叱って欲しい、ぐちゃぐちゃになるまで罰を与えて欲しいという気持ちが折り重なる。


「……そっか」


 蓮はそれ以外何も言わなかった。ただ私の頭をそっと撫で、ぎゅっと私の体を抱きしめる。辛い、辛い辛い辛い。どうして私はあの時思いを伝えられなかったのだろう、どうして私は恐怖に飲み込まれてしまったのだろう。もしあの時、恐怖を打ち破り前に進むことが出来ていたらきっとどんな結果でも受け入れることが出来たのに。


「私……私……」


 色々な思いが津波の様に押し寄せてくるのに、どれも言葉にすることが出来ない。言葉の代わりに生まれたのは溢れんばかりの大粒の涙と嗚咽だけ。


「大丈夫だよ茜。茜ならきっと大丈夫、まだ終わった訳じゃない」


「でも……私……」


 蓮の言葉が飲み込めない。もう私は終わったのだ。私は勇気を出せず、ただ自分のことを責める事しか出来ない愚者なのだ。私は自ら舞台を降りた臆病者なのだ。


「今は泣いていい、今は私に甘えていい。その代わり私のことを信じて欲しい。まだ終わってない、茜にはまだチャンスがある」


「……もう無理だよ……私には絶対に無理」


「無理じゃない。茜はまだ晴翔君の答えを聞いていない、ならまだ可能性はある。文芸部という一つの繋がりは失われたかもしれない。でもそれはもう晴翔君と会わないという理由にはならない。だからまだ大丈夫、茜次第でここからまたやり直せる」

 

 蓮は私の涙を親指で拭い、じっとこちらの瞳を見つめる。


「私の茜はこんなところでは終わらない子だよ。今すぐは無理かもしれない……でも、もう少しだけ頑張れるって私は信じてる。次からは私も本気で協力する、だから自分の気持ちを諦めないで欲しいな」

 

「……うぅ……蓮!!」


「はいはい……今は好きなだけ泣くと良いよ」


 私は抑えきれなくなった気持ちを涙で昇華させる。まだ終わっていないのなら、まだチャンスがあるのだとしたら。次こそは……次こそは──────





言えるのだろうか?

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