第122話 胃がもたん!
「わぁ……どれも美味しそうだね晴翔君」
「……ですね」
陳列された商品を眺め、どれを買おうか悩んでいる茜先輩を一歩引いた場所から見守る。並んでいる品物は鈴乃と一緒に作ったようなマフィンやクッキー、それに加えてベーグルやフィナンシェなど見るだけで美味しそうなものばかり並んでいた。
甘い物が大好物の晴翔氏、本来なら目を輝かせて何を買おうか悩む所なのだが今はそうは行かない。
こ、こわ……顔は笑ってるのに警戒心が薄まるどころかどんどん体が強張ってくんですけど……。
本来笑顔というものは人の警戒心を薄める効果を持っている。むすっとしている人にいきなりを声を掛けられるのと微笑みを湛えながら話しかけられるの、どちらが警戒心を持ちにくいかと言われると間違いなく後者だろう。
しかし、世の中にはありとあらゆる分野で例外というものがある。その一つがこれ、一見ニコニコとしているがその後ろから圧が滲み出ているという現象である。この場合に限り人の警戒心のボルテージは最高潮にまで登り、体が弛緩するどころかガッチガチに固まるのである。ちなみにソースは俺です。
「晴翔君、そんな後ろに居ないで隣に来なよ。ほら」
先輩が俺の服の裾を掴みくいっと引っ張る。その一瞬の動作を鈴乃が見逃すはずがない。茜先輩が俺の方を向いていることを確認した鈴乃は上げていた口角をすっと下げ、目を大きく見開く。
俺のことを中心に捉えている瞳にもちろん光が灯っていることはなく、放っている圧だけで人を気絶させることが出来るんじゃないかと思えてしまう。
「ちょっと本当にやめてくださいよ先輩!!何やってるんですか!?!?!?!?」と動揺を隠しきれていない表情でこちらを見る白川、彼女の表情は隣から感じる圧への恐怖が滲み出ていた。なんかごめん白川、でもこれ俺じゃどうしようも出来ないんだよね……。
これ以上何かあってはまずいと思った俺は大人しく茜先輩の隣へと移動する。もしこれで裾ではなく部室に入ってきたとき同様腕を掴まれたが最後、ゲームオーバーの文字が画面全体に表示されることになってしまう。それだけは何とか回避しなければならない。
「晴翔君って確か甘い物好きだったよね?」
「え?えぇまぁめっちゃ好きっすね」
いやぁ!やめてぇ!何気ない日常の会話覚えないでぇ!(ソプラノ)
先ほどの発言を聞いてか、ニコニコ笑顔に戻ったはずの鈴乃の頬が一瞬だけピクリと動く。今の鈴乃の一挙手一投足は時限爆弾のそれと何ら違いはない。俺の言動一つで爆発する可能性があるのだ。も、持たない!俺の胃が持たないって!!後白川の胃も!
「そんな甘党の晴翔君のおすすめはあるかな?」
「そ、そうっすね……クッキーとか良いんじゃないすかね?鈴の試作品食べたんですけどめちゃ美味しかったですし」
「それは気になっちゃうねぇ。それじゃあ私はクッキーを買おうかな」
一瞬だけ鈴乃の圧が弱まった気配を感じる。白川がそっと胸を撫で下ろしていることから勘違いではないだろう。白川という名の鈴乃の怒りメーター……いやマジでごめんな白川?
「いいですね。じゃあ自分はベーグルとこの焼き菓子セットにします」
この場に長居すると俺と白川の精神状況的によろしくないと思った俺は早急に品物を買い、この場を立ち去ることに決めた。
「ベーグルと焼き菓子セットですね……はい、どうぞ……兄さん?」
俺の体がびくりと跳ねる。品物の入った袋を受け取るときに鈴乃が俺の手の甲に手のひらを重ねてきたのである。ひんやりとした感覚が俺の手を包み込む。そしてその冷たさは手から腕、体全体へと走っていく。
ぞくりとしたものが背中を襲う。この数分間で何度も感じていた悪寒だったが、その中でも特大の物が俺の体に纏わりつく。ほとんどの生物が死に絶えてしまうほどの大寒波である。
すりすりと鈴乃のひんやりとした手が俺の手をゆっくりとなぞる。普段触られることの無い場所だからかただ触られているだけなのにくすぐったさを感じる。普通であればくすぐったいだけで済んだのだが、くすぐったさの他にも恐怖や気まずさという来てほしくないものが大手を振ってやってきてしまう。
すりすり……すりすり……
時間にしては数秒だがこの時だけ時の流れが何十倍にも遅くなったような感覚を覚える。これが捕食者を前にした時の得物の気分なのか……。
「後で兄さんのお店に行きますね。出来れば兄さんが接客してくれると嬉しいなぁ……なんて」
「……鈴乃が来た時には俺に対応させてもらえるよう美緒に言っとくよ」
「本当ですか?ありがとうございます、兄さん」
ここで断ったら一体どうなってたことやら……。
「いやぁ楽しかったね晴翔君!」
「……そうですね」
一緒に文化祭を回り終えた茜先輩は非常にご満悦、にっこにこの笑顔を浮かべている。茜先輩との時間は楽しかったが、俺には鈴乃の機嫌を何とかしないといけないという最重要任務が残っているため気が気でない。
「ね、ねぇ……晴翔君!その……」
「ん?どうしました先輩?」
そろそろ解散しようとしたその時、茜先輩がピタリと立ち止まり何かを言い淀む。言うべきか言わないべきか悩んでいるご様子。俺はそんな茜先輩を急かすことなく、次の言葉が紡がれるのをただ待ち続ける。そうしていると茜先輩が大きく息を吸い、口を開いた。
「晴翔君!きゃ、キャンプファイヤーの時って……あ、空いてます……か?」
「キャンプファイヤーですか?特に予定はないですけど……」
「なぜ急に敬語?」と思ったが時間に余裕が無かったため一旦スルーすることにした。
「なら!わ、私と……い、一緒に踊ってくれませんか!?」
「へ?あ、あぁー……」
予想だにしなかった言葉に俺は虚空を眺める。
どうしよう、なんて答えればいい?別に踊ること自体は問題ないのだけれどここでイエスって答えると後々俺の首が飛ぶ可能性が……。けど──────
手足を震わせ、恐怖と期待で塗りたくられた茜先輩の表情を見ると断る気がどんどんどんどん失せていってしまう。
ここで断れる勇気、俺は持ってないんだよなぁ……。
「分かりました、俺で良ければ一緒に踊りましょう」
「っ!うん……うん!ありがとう晴翔君!それじゃあね晴翔君!!」
ぱっと花を咲かせた茜先輩はこの場から逃げるように走り去っていった。あぁ……こういう時にすぱっと断れれば苦労しないんだけどなぁ……。
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