第82話 トラウマ
肝試しをやった次の日、鈴乃は明らかに機嫌が悪くなっていた。それはもう、過去一と言ってもいいくらいには。
「鈴、おはよう」
「……おはよう」
俺に向ける視線、態度、そして声のトーン。その全てにおいて不機嫌さと俺への怒りや不満が詰まっていた。挨拶をした後も普段であれば、他愛ない会話をしたり、軽いスキンシップをしたりするのだが、今日はその気配も全くなく、朝ご飯を食べたらすぐに自室へと帰って行った。
挨拶をしっかり返してくれるのが唯一の救いだが……これは一体どうしたらいいんだろうねぇ……。
「晴翔、お前鈴乃ちゃんと喧嘩でもしたか?」
「まぁ、大体そんな感じ?」
仕事の準備をする片手間に父親に質問をされる。まぁ朝からあんなにギスギスした空気を見せられたら、気になってしまうのも無理はない。朝からこんな重たい空気に触れさせちゃってごめんね?
「こういう時はなるべくすぐ謝っといた方が良いぞ?自分が悪くなくてもな」
「うん、そうするよ」
「ならいい、それじゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
父を見送り、俺は朝ご飯へと手を付け始める。まだ少しぼーっとする頭でトーストを咀嚼していく。
「あ、葵さん。皿洗いなら俺がやっておくよ?」
「そう?ならお願いしようかな」
「任せて」
仕事の準備を終わらせた葵さんがキッチンへ入っていったのを見て俺は声を掛ける。仕事があるのに朝ご飯を作ってもらっているのだ、このくらいはやらないとね。
「それにしても珍しいわね、晴翔君と鈴乃が喧嘩するなんて」
「まぁたまにはこういう時もあるよ」
葵さんが穏やかな笑みを浮かべながら話しかけてくる。今までにも鈴乃の機嫌が悪くなることは多くあったが、今回のは100年に一度レベルの不機嫌さだ。父さんと葵さんが心配してくるレベルだから相当なものである。
「すぐ仲直りできるといいわね。それじゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
葵さんを見送り、残りの食事をのんびりと食べた俺は皿洗いを済ませ、ソファに倒れこむように座る。
「ふぅ……なんて謝ればいいかな……」
自分に非があるのは分かっているし、土下座をする準備もこちらには出来ている。ただ、普通に謝って許してくれるかと自分に問いかけてみた時に、今回は無理そうという答えが返ってきたのだ。
今回はいつもとは違う、いつもみたいに鈴乃の機嫌が良くなるように甘やかしたり、お願いを聞いたりしてもあまり効果が無いように思えて仕方がない。
いち早くこの状況を改善したいのは山々なのだが、その策が全く見えてこない。どうすれば……どうすればいいんだ……。
ああでもないこうでもないと頭を悩ませていると、ガチャリとリビングの扉が開かれ鈴乃が中に入って来る。鈴乃は俺のことなど眼中にないといった様子でキッチンへと向かい、冷蔵庫の中身を物色する。
声を掛けるなら今だが………何を日和っているんだ俺は、俺から声を掛けないと解決しないのは明白なんだ、だったら多少の気まずさなんてそこら辺に捨てろ!
「なぁ鈴、昨日は……」
「何?」
ピタリと俺の体が止まる。言いかけていた言葉も、呼吸さえも。まるで俺の身体だけ時が止まってしまったかのように動かなくなってしまう。
「……何お兄ちゃん、用があるなら早く話して」
「い、いや、何でもない。急に声掛けちゃってごめん」
「……そ」
鈴乃は興味を失ったかのように俺から視線を逸らし、そのままリビングを出て行ってしまう。
言えば良かったのに、あそこで謝れれば良かったのに、分かっていたはずなのに俺の体が、頭が一時的に機能を失ってしまった。原因は一つ、前世の鈴乃と今の鈴乃が重なって見えてしまったからである。
敵対心の籠った冷ややかな視線、会話をすることを拒むような単調な声音、彼女の動きが、表情が前世の鈴乃と全く同じに見えたのだ。同一人物なのだから全く同じなのは当然と言えば当然なのだが、見たくない光景を、見ることが無いように努力してきた光景を目の当たりにし、俺のトラウマじみた記憶が蘇ってしまう。
力が抜けたようにソファに座り込み、そのままぱたりと倒れこむ。信頼は積木と同じで、積み重ねるのには時間と労力がかかるのに、崩れるときは一気に崩れてしまう。
俺は鈴乃に嫌われてしまったのだろう、あの冷たい態度がすべてを物語っている。良き兄なろうと努力していたもの全てが水泡に帰してしまったのだ。
「ははは……死にてぇ……」
俺はソファに横たわりながら自虐的な笑みを浮かべる。今なら口から人魂を出せそうな気がする。あぁ……病みそう。
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