第72話 綺麗な月

「夜だと大分涼しいなぁ」


「そうだねお兄ちゃん」


 虫の鳴き声が響く夜道を鈴乃と共に歩く。飲み物を買うために外へ出ようとしたのだが、その時に鈴乃もついていくと言ったため、こうして二人で歩いている。


「鈴は何がいい?」


「うーん紅茶がいいかな」


「あいよ」


 近くにあった自動販売機で飲み物を買い終えた俺は踵を返し家へ戻ろうとするも、鈴乃に服の裾を掴まれる。


「ねぇお兄ちゃん、少しだけ散歩しない?」


「そうだな……うん、行くか」


 時間もまだ21時と余裕があるため、俺は鈴乃の提案に頷く。


「わぁ……綺麗……!」


 俺と鈴乃は海辺へとやってきた。夕方の時の海も綺麗だなと感じたが、これはこれで見入ってしまう。波のゆらゆらとした動きが月明かりを反射し、街灯が無いのにとても明るく感じられる。


「夜の海って新鮮だね。波の音ってこんなに響いてくるんだ」


「だな」


 お昼と違って人の声がないせいか、波の音が鮮明に響き渡る。ヒーリングミュージックとして即戦力になるくらいに心が落ち着く音がする。


「っしょっと」


 俺は砂の上に胡坐をかいて景色を眺める。鈴乃の反応的にもうしばらくはこの景色を見ているだろうし、俺は座ってのんびりするとしましょう。


「よいしょっと」


「……あの、鈴乃さん?」


 椅子に腰かける時のように俺の上に座り込む鈴乃に俺は声を掛ける。


「……だめ?」


「だめじゃないよ」


 首を少し傾げながらこちらを見上げる鈴乃に俺は即答する。何その可愛い動き、俺のことは椅子だと思って全然大丈夫です。


「今日楽しかったねお兄ちゃん」


「そうだな。海ではしゃぐなんて何年ぶりだろうな」


「お兄ちゃんはそんなにはしゃいでなかったでしょ?」


「まぁそこら辺漂ってるだけだったしな」


 今回俺がしたことと言えば砂に埋まる、散策、海を漂うくらいでがっつり泳いだり水を掛け合ってキャッキャしたりとかはしていない。……や、やってることが高校生らしくない。漂うって何だよ、漂うって。


 ふふっと笑った鈴乃は体の力を抜き、俺にもたれかかってくる。それから少しの間、俺と鈴乃は会話をすることなくただ景色を眺める。


 不規則に聞こえてくる波の音、ゆらゆらと揺れる海面、そして淡く、そして白く輝く月。こんなに綺麗なら皆を連れてきても良かったかもしれないな……。


「お兄ちゃん」


「ん?」


「月が綺麗だね」


「……そうだな」


 鈴乃はこちらを見上げ微笑む。月明かりに照らされた笑顔は儚く、それでいて美しい。彼女が月からの使者であると言われても納得してしまうほどに。


 そういえば月が綺麗ですねって言われた後は何て答えればいいんだっけ……?忘れちゃったなぁ、まぁ単純に月が綺麗だから言っただけだろうし、そんなに気にしなくていいか。


「そろそろ戻ろっか。あんまり遅すぎると椿達が心配するかもしれないし」


「そうだな」


 




 な、なんてベタなことをしちゃったんだ私は……。


 有名な小説家の台詞、今なら違和感なく言えると思ったけど実際に言ってみると少し恥ずかしいものがある。その証拠にいつもよりも体温が高い。


 でもお兄ちゃんは気が付いてないだろうし、気が付いてても冗談か何かだって流しちゃうんだろうなぁ。


 お兄ちゃんは感が鋭いように見えて鈍い、特に自分のこととなるとすごく鈍い。なんと言うか自己肯定感がそこまで高くないからなのか、他人からの好意というものに気づいていない節がある。


 少しこの鈍さが治れば、いかに自分が女に狙われているかとか、私がどれだけお兄ちゃんのことが好きか分かるだろうに。


 ……でも、お兄ちゃんの鈍感さより先に度胸というか恥ずかしさへの耐性をつけないと……。


 今日の言葉だけでこんなに恥ずかしいのなら、真っ直ぐとした言葉は口に出すことは出来ないだろう。正直先が思いやられる。最近はお兄ちゃんの周りがちょっと不穏だし、出来るだけ早くしないとなのに……道のりは長いなぁ。

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