第54話 逢魔が時に何思う
「ただいまー」
「お帰りなさい鈴乃、それと体育祭お疲れ様」
「お帰りなさい、そしてお疲れ様」
「ありがとお母さん、お父さん」
体育祭は無事に終わり、私はいつもとは違う疲労感を抱えたまま家に帰った。玄関の扉を開けるとお母さんとお父さんが私を出迎え、そして労ってくれる。その言葉が疲れた体の深いところへ浸透し、体からゆっくりと力が抜けていくのを感じる。
「あれ?お兄ちゃんは?」
「晴翔君なら少し前に帰ってきたわよ」
「うん、多分部屋で寝てるんじゃないかな?」
「ありがと」
私は手を洗ったり、荷物の片付けをしてからお兄ちゃんの部屋へと向かう。一応ノックしてみるものの、反応が返って来なかったためおそらく寝ているのだろう。起こさないように静かにドアを開けるとすぅすぅと規則正しい寝息を立てながら眠っているお兄ちゃんの姿があった。
「むぅ……こんな幸せそうな顔して眠っちゃってぇ…」
体育祭が終わった後私はクラスの人に囲まれた。話題はもちろんお兄ちゃんのこと。普段から自分のことを話さないのもあって私に兄がいるのを初めて知った生徒がほとんどだったらしい。あれやこれやと質問攻めされ、帰るのが遅くなってしまった。
「どれもこれもお兄ちゃんが悪いんだぞ〜?」
穏やかな表情で眠るお兄ちゃんの頬を指でツンツンしながら私は不満を口にする。別にお兄ちゃんとの関係性がバレたことに対して怒っているわけではない。というか、私たちが兄妹であることを知られても問題ないため怒るも何もないのだ。
「乙女心を弄ぶなんてお兄ちゃんは悪い男だよ、まったくぅ……このこのぉ」
私のものよりも少し固いお兄ちゃんの頬を再びツンツンする。こんな悪戯をされても起きる気配がないため、かなり深い眠りについているのだろう。まぁお兄ちゃんインドア系だし仕方ないか。
私はお兄ちゃんの寝顔を見ながら今日の出来事を思い出す。
いやね?分かってましたよ?お兄ちゃんが大切な人ってお題で私を借り者として連れてきたということはそういうニュアンスで連れてきたということは予想がついてましたし分かってましたよ?
でもね!?なら先にお題の内容を言って欲しかったの!だったら変な期待とかしなくて済んだのに!あんなに恥ずかしい思いしなくて済んだのに!!あんな少女漫画みたいに強引に手を引っ張って連れ出してさぁ!?それであの仕打ちって……ちょっとは私の乙女心を考えてほしいよ!!
ガヤガヤとざわつき、悲鳴に似た何かが聞こえるほど騒がしかった会場が、お兄ちゃんの言葉を聞いて安堵と驚きの声に包まれた瞬間を思い出す。あの会場の中で唯一テンションが下がった人間だという自信がある。お兄ちゃんが起きていたら無言で背中をぽかぽか叩いていただろう。命拾いしたねお兄ちゃん。
……ちょっと待って?そういえばお兄ちゃん最初は友達を借りようとしてたって言ってたよね?
今日の出来事を振り返っているとふと、お兄ちゃんが私に言った言葉を思い出す。
さ、流石に男の友達だよね?多分「大切な友達です!!」ってしたかったんだよね?……もしこれで女の子だったら……いやでも流石に男の友達だよね。うん、きっとそうに違いない。
というかよくよく考えたら私とお兄ちゃんの関係がバレることでお兄ちゃんの良さに気が付いてしまう女が現れてしまうのではないか?……虫除けはちゃんとしないといけない季節だし、気をつけないとなぁ……。
ちなみに余談だが、鈴乃が考え事をしているほんの少しの間、晴翔は悪夢にうなされたらしい。なんでだろうね。
「はぁ……」
私はベッドの隣に座り込み、シーツに顔を埋めるようにして顔を伏せる。小さい頃から嗅ぎ慣れ、安心する香りが私の鼻腔をくすぐる。このまま目を閉じ、意識を手放すのも悪くはないが、ただでさえ疲れている足に負担がかかりそうだったため、しばらく匂いを堪能した後顔を上げる。
もし……もしお兄ちゃんがあそこで私に告白してたら一体どうなってたんだろうなぁ……。
存在しない未来を想像し、私はたらればの世界線を少しだけ覗き見する。
もしお兄ちゃんが私を一人の女の子として見てくれていて、それでお兄ちゃんから告白されて。皆から色んなことを言われるんだけど、それでも少しずつ認めてもらって。今でも十分幸せだけど毎日が今よりももっと幸せになって──────
「……ってないよねぇ」
自虐するような笑顔を浮かべて、黒板の文字を消すように妄想した世界を霧散させる。
世間的にあまりよろしくないこの感情、なのに蓋をしてもその蓋を押し除けて溢れ出てきてしまうこの感情。もし、もしお兄ちゃんにこの感情を口に出して伝えたら一体どんな反応をするんだろう。
そう考えた次の瞬間、私の体がぞくりと震える。お兄ちゃんの口から発せられる死刑宣告よりも重い言葉が想起され、ソファでくつろいでいたはずの心がいきなり地獄へと放り出される。
「……怖いなぁ」
行き場のない、それなのに湯水のように無限に溢れ出るこの感情からそっと視線を逸らす。でもいつの日にかこの感情と向き合わないといけない日が来る。天国か地獄か、どちらが広がっているのか分からない扉を開かなければいけない日が来る。
ただ、今はその時ではない。まだ、もう少しだけ妹としてお兄ちゃんに甘えていたい。お兄ちゃんから注がれる大量の愛情をただ享受していたい。
「はぁ……お兄ちゃんはずるいし悪い男だよ」
未だ起きる気配のないお兄ちゃんの寝顔を見ながらポツリと呟く。こんなに近くにいるのに大きな壁が存在していることに私の心の周波数は一気に下がっていく。
ずるい、でも好き。悪い、でも好き。今日のあれのせいか、それとも久しぶりにお兄ちゃんとこんな近くにいるからなのか、いつもよりも感情の昂りを抑えることができない。
……お兄ちゃんは寝てるし、練習くらい……してもいいよね?
正常な判断が出来るほど今の私の心身は元気ではなかったのだろう。お菓子を食べていいか親に聞く子供みたいに、顔色を窺いながら自分自身に問いかける。こんな自問自答に意味はないというのに。
私は、静かに、そして深く息を吸う。自分が今どんな表情をしているか分からない。恐怖と緊張で見るに耐えない顔をしているかもしれない。
それでも恋愛映画のラストシーンのヒロインのように、私は笑顔を作る。
「ねぇお兄ちゃん、私もね?お兄ちゃんのことが────────」
オレンジ色に染まる静かな部屋に、少女の甘い囁きが静かに鳴り響いた。
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