第34話 「襲撃」
エルフリーデは、マリスがコッパー子爵子息に自分から近寄り、何事かを話しているのを遠目から眺めていた。
(自分の評判が悪くなるようなことはしなければいいのに……)
壁の花であるエルフリーデですら、コッパー子爵子息の悪評について聞きかじったことがあるくらいだ。ということは、公の場では近づくのを避けたほうが良い相手というのはわかりきったことだろうに。
(でも私が口を出せるようなことではないし……)
エルフリーデが何を言おうとも、マリスが聞く耳を持つとは思えない。
「どうした?」
そこでギイに話しかけられ、エルフリーデははっと我に返る。
どうしてかギイは心配そうな表情だった。
「踊りすぎたか……疲れたか? 少し休もう」
「大丈夫よ、そこまで疲れたわけじゃないの」
「そうか……だったらいいが」
それでもギイの表情が晴れないため、エルフリーデは首を傾げる。
「そんなに心配しなくても、本当に疲れたらちゃんと疲れたって言うようにする」
ここしばらくで、ギイとの会話は随分とスムーズになった。
一旦打ち解ければ、やはり二人は仲が良い幼馴染なのだ。
「そうしてくれ。……ほら、この屋敷は……お前がこの前転んだからな。考えすぎだとわかってはいても、あまり落ち着かないんだ」
彼が何を心配しているのかに気づいて、エルフリーデの胸はいっぱいになった。
「……、ギイ……」
思わず昔のように、彼の名を呼ぶと、ギイが瞬く。
エルフリーデはすぐに口元を手で覆った。
「いけない、私ったら……ごめんなさい、さすがに馴れ馴れしすぎたわ」
「エル」
そこで彼も、昔のように愛称で彼女を呼び、エルフリーデははっと唇を震わせる。
「エルに限って、馴れ馴れしすぎるなんてことはないんだ。そのまま、ギイって呼んでくれ」
精悍な青年の顔の奥に、よく見知った彼が隠れているように思えた。
「……いいの?」
「いいの、じゃない。どうか、そうして欲しい」
「うん、じゃあそうする……ギイ、心配してくれてありがとう」
どうしてか泣きそうにも思えるギイが彼女を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめた。最近馴染んできた彼のコロンの爽やかな香りがふわっと漂う。
(……ああ……)
彼に抱きしめられるのは子供の頃以来だ。
ためらいがちに、でも彼にそっと身を任せると、ギイの身体が熱くなる。
(安心する)
子供とは全く違うしっかりした男性の体つきなのに、彼の体温にすぐに馴染む。まるで母の葬式の日に、彼がそっと手をつないでくれたように。
「あの時もエルって呼んでくれたわね」
ぽつりと呟けば、ギイが身体を起こして彼女の顔をのぞきこんだ。
「……あの時、だって?」
「ここの庭園で、私が転倒した時」
ギイが瞠った。
「お前、思い出したのか?」
「思い出したというか……、あの瞬間のことだけは忘れたことはないの」
ギイの顔がさっと悔しそうに歪む。
「俺は、間に合わなかった……お前が倒れて……ぐったりしてしまった時、どれだけ後悔したか分からない」
「ううん、ギイは手を伸ばしてくれていた……助けようとしてくれて――嬉しかった」
ぽつりと呟くと、エルフリーデを抱擁していたギイの腕に力がこもる。
「エル……」
小さく震え続けている彼の腕にエルフリーデは手を置く。
(あの時、ギイが手を伸ばしてくれてたから……私、きっとこの世界に戻ってこれたんだと思う)
エルフリーデはそっとギイに身体を預ける。
――だが感慨にふける間もなく。
「おーい、ギイ! 婚約者といちゃいちゃするなよ!」
「そうだよ、お前だけ幸せになりやがって。俺たちに祝わせろよっ」
「こっちに来て乾杯しようぜ」
今ではエルフリーデも見知ったギイの友人たちが、二人を囲んだ。エルフリーデを抱きしめていたギイの喉奥から唸るような声が出る。
「お前らっ……」
エルフリーデは笑うと、ギイの背中を軽く押した。
「私のことは気にしないで。それから……、今から庭園に行ってきていいかな」
「え、お前一人でか?」
「うん」
「庭園に……?」
ギイがあの夜のことを思い出しているのに気づいたエルフリーデは安心させるように続ける。
「ギイが言う通り、少し疲れたみたい。だから外の空気を吸いたいなと思って」
「だが……」
「ここの庭園は明るいし、従者の方たちも立っていらっしゃるから、一人でも大丈夫よ。少ししたら戻るって約束する。でもよかったら、ギイも乾杯が終わったらすぐに来てくれる?」
そういえば、ギイが不承不承頷いた。
「ああ。すぐに向かうけど、十分気をつけろよ」
「うん」
「それから、後で話したいことがある」
「……? わかったわ」
エルフリーデはギイが友人たちの元へ歩いていくのを見送り、それからすぐに身を翻した。心配してくれるギイには申し訳なかったけれど、今だけは一人で行動したかったのだ。
◇◇◇
マコノヒー伯爵家の庭園は、先程ギイに言ったように松明が灯され、足元の明るさが保たれており、また使用人たちの行き来も多い。
エルフリーデは迷うことなく、目的の像がある奥に向かって歩き続ける。
(いてくださった……!)
天使の像の前でエルフリーデは立ち止まる。
今夜も天使の像は、月明かりを浴びて涙を流しているようだった。
彼女はすっと膝をつくと、祈りを捧げるように両手を握りしめる。
(天使様、私をこちらの世界に戻してくださって本当にありがとうございます。私の願いを聞いてくださって、それに、私に……大事なことを気づかせてくださって……今、戻ってこれて良かったと思っています―――っ)
続きの言葉は、誰かがエルフリーデにぶつかってきた衝撃のあまり消し飛んだ。
「……っ!」
「わりぃなあ」
彼女の身体に伸しかかるように体重をかけてきていたのは、コッパー子爵子息だった。彼がにやりと笑うと、尋常ではないくらいの酒臭さが辺りに漂い、鼻をつまみたくなる。
「へっへっ、なんだぁ、ただの地味な壁の花かと思ったら、こんな可愛い人だとはなあ。遊べる上に、金もらえるなんて、今夜はついてたな」
「なにを、おっしゃっているのか、わかりません」
相変わらず彼女を逃さないかのように体重をかけてくるコッパー子爵子息から逃れるようにエルフリーデは身を引いたが、がっちりと彼に腕をつかまれてしまった。
「……!?」
「なんだよ、そんなにつれなくして。でも、嫌がるのも演技だって聞いたぜ。嫌がるのが性癖だなんて、難儀な性格してるよな、お前」
「な……っ」
エルフリーデはそのまま凄まじい力で抱き込まれてしまう。
ここに至って恐怖に駆られた彼女はじたばた動きはじめても、びくりともしない。
「やめてください、はなして……っ!」
「残念だなあ、誰も来ないぜ……?」
「そ、そんなこと、なっ……!」
もがけばもがくほど、エルフリーデの腕をつかんでいる彼の力が強くなっていく。そして、引きずられるように近くの茂みに向かって引っ張られ始めた。茂みへ入ってしまえば、本当に人目につかなくなってしまう。
(こ、こわいっ……!!)
「来たとしても間に合わないだろうなあ、お前の婚約者、さっきまだ乾杯してたぜ……そのまま酒飲んで、お前のことなんて忘れちまうんじゃないの。大丈夫だって、ちょっと痛えかも知れないけど、いい目にあわせてやるからよ……それが、好きなんだろ」
お前の婚約者、と言われた瞬間、彼の姿が脳裏に浮かんだ。それまで恐怖のあまり固まっていた身体が、言うことを聞くようになる。
(そんなわけ、ない……、すぐ来るっていったら、来てくれるっ……!)
だって彼は信頼できる人だ。
エルフリーデは一縷の望みをかけて、その人の名前を叫ぶ。
「……っギイ、助けてっ……!」
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