第32話 「side グレンフェル伯爵夫人」

 そうしてギイとの関係が円滑に回りだすと同時に、エルフリーデと父との関係もずっとよくなっていた。

 そしてエルフリーデはみるみるうちに明るさを取り戻していったのだ――まるで、エルフリーデの母が生きていた頃のように。


 ◇◇◇


 グレンフェル伯爵夫人は、とても貴族らしい両親のもとに生まれた。


 それなりに裕福な家庭ではあったが、父も母もそれぞれ愛人がいた。自分の初婚の相手も、政略結婚に過ぎず、マリスが生まれた後は冷え切っていた。

 最初の夫と死別することとなり、次の夫となったグレンフェル伯爵のことは、実は以前から知っていた。遠縁のジョセフィーヌの夫だったからだ。


 明るく、朗らかなジョセフィーヌのことは、ずっと苦手だった。いつでも人垣の中心にいるような彼女は、夫とも熱烈に愛し合っていて、自分にはないものを全て持っていた。

 子供であるエルフリーデも可愛らしく、きっとそのうちグレンフェル伯爵の幼馴染であるクレモンヌ家の子息と結ばれるのだろうと誰もが思っていた。

 クレモンヌ家といえば社交界の中心となりうる家柄。

 どうしてジョセフィーヌばかり、そんな風にも思っていた。


 とはいえ、ジョセフィーヌが死ねばいいなどと願ったことはもちろん一度もない。神にだって誓える。けれど不幸な出来事があり、その後自身が彼女の後釜になると決まった時には、ジョセフィーヌよりも幸せになりたいと思ったのは事実である。


(現実は、全然違ったけれど)


 グレンフェル伯爵は、自分のことを決して愛してはくれない。

 夫婦関係も一度もない。

 彼は体面と、エルフリーデに母親が必要だろうとそれだけを考えて再婚を決めただけだった。

 名ばかりは夫婦だが、要するに同じ家に住む、ただの他人である。

 彼が愛しているのは、ジョセフィーヌと、そしてその娘のエルフリーデだけ。

 

 そのことに気づいたのは、グレンフェル伯爵がエルフリーデを街に連れ出した日のことだ。マリスも連れて行ってくれたら良かったのにと静かに詰った自分に、夫はこう答えた。


『マリスには君がいる。だがエルフリーデには、誰がいる? 私しかいないじゃないか』


 境界線をはっきりと敷かれた瞬間だった。


『まるでそれは私がエルフリーデの母親として失格のようですわね』

『……そんなつもりは、ないが』


 それきり夫は黙り込んだ。


『私は私なりに母親としての立場を全うしようとしておりました。それを認めてはくださらないのですか? では何のために再婚したのでしょう?』

『……』

『貴方がジョセフィーヌを愛していらっしゃったことは存じております。彼女を愛したままでも構いませんし、私のことを愛してほしいとは申し上げませんわ。子供もこれ以上は求めません、だって私達にはエルフリーデとマリスがいますし……婿殿を迎えなければならないでしょうが』


 そういえば、夫はそれ以上何も言わず、信じて良いのだな、と確認してきただけだった。


『もちろん、私はマリスと同じように、エルフリーデを自分の子供と思って育てます』

『わかった。君を、信じよう』


 それから確かに、夫は彼女に全権を委ねてくれたように思った。

 ――けれど、やはりエルフリーデが可愛いのだろう。ギイ=クレモンヌとの婚約は、自分には一切相談なく、決められたのだった。

 そしてそれから、全てが変わり始めた。


(他の令息ならまだいい、でもギイ=クレモンヌは許せない……!)


 かつてジョセフィーヌが生きていた頃。

 ジョセフィーヌの娘がきっとクレモンヌの子息と結婚すると嫉妬していた自分には到底許せないことだった。


「お父様、昨日は美術館に行ってきたんです」

「国立美術館かい?」

「はい。クレモンヌ様、風景画のほうが好みなんですって。人物画の前だと信じられないくらい早く通り過ぎられるんですよ」


 エルフリーデの声が、今までに聞いたことがないくらい弾んでいる。

 彼女の食事作法は完璧で、こうした会話も決して礼儀に反しているわけではないが、しかし楽しそうな会話が耳障りで、無意識のうちにグレンフェル伯爵夫人は聞こえよがしにため息をつく。

 以前ならばエルフリーデは口をつぐんでいただろう。

 だが今朝のエルフリーデの耳には届かなかったのか、彼女はそのままグレンフェル伯爵と会話をし続けていた。

 エルフリーデの隣でマリスの顔が醜く歪み、食事が全然進んでいない。


(旦那様がギイ=クレモンヌとの婚約をエルフリーデと結ばせると言い出したくらいから、おかしくなったわ……!)


 グレンフェル伯爵夫人は、いまだかつてない焦りを感じていた。


 ◇◇◇


 朝食後、思い余ったグレンフェル伯爵夫人は夫の執務室の扉をノックした。


「ああ、君か」


 夫は手にしていた書面から一度視線をあげたものの、再び執務に戻る。


「あの……お忙しいところ、大変恐縮ですけれども」

「うん」

「お時間をいただけませんか。長引かせませんから」


 そう言い出せば、ようやく夫は書類を置いた。


「クレモンヌ家との婚約についてですが」


 切り出すと、夫が目を眇めた。


「またその話か」

「また、ではありませんわ。すごく大事なことですもの」

「大事なのは、もちろんそうだね」


 夫はそう言いながら、じっと彼女を見上げる。

 

「実の娘に良い婚約話を用意したいのは、親として当然の思いですわ」


 グレンフェル伯爵はゆっくりと両手を組む。


「エルフリーデだって実の娘だろう? 君にとっては結局、マリスだけが実の娘なんだね」


 静かな指摘に、目を見開く。


「ど、どうして、そんなことをおっしゃるのですか……!」

「ではどんなつもりで、何度もエルフリーデの婚約話に異を唱えるんだ?」

「そ、それは……っ」


 至極珍しいことに、グレンフェル伯爵夫人は絶句してしまった。

 夫は決して詰っているつもりではないだろう。彼はあくまでも淡々と続ける。


「私は君を信じていた」

「……っ」

「君が言ったんだろう、エルフリーデをマリスと同じように育てる、と。私は君のことを信頼する、と言ったはずだ。だがそれからどんどんエルフリーデから笑顔がなくなって……、だがまぁ、亡くなってから笑顔が極端に減っていたし、それからは年齢のこともあるだろうとは思っていた。それに君は躾の厳しい母親でもあったからね、マリスに対しても」


 妻が、と言った時のグレンフェル伯爵は、あたかもグレンフェル伯爵夫人は妻ではないかのようだった。


「だがずっと何かが気になっていて――……あと、勘違いしないでほしいんだが、エルフリーデの婚約は私の一存ではない。クレモンヌ家の意向も多分に含んでいる。でもそれは別にマリスが君の娘だからというわけではない。彼らはエルフリーデのことを気に入っているんだよ、昔はよく行き来があったからね」

「……、で、でも、私に、相談も、なく……っ」

「相談? したら反対するのに決まっているだろう。エルフリーデのファーストダンスのことだって良い顔をしなかったじゃないか」


 ぐ、と伯爵夫人は息をのむ。


 エルフリーデとギイのファーストダンスが行われたデビュタントの夜、夫は夜会に来なくて良い、とはっきりいったのだ。マリスの側にいてやりなさい、と言われたので従ったが、まさか裏でエルフリーデとギイ=クレモンヌのファーストダンスを計画しているとは思いもよらなかった。


 とはいえ、家同士の仲の良さや年齢のことを鑑みるとそれはあり得る話ではあったが。だからそんなに何度も文句を言ったつもりはなかったけれど、どうやら夫には真意を気づかれていたらしい。


「それは……」


 そこでグレンフェル伯爵が椅子から立ち上がった。

 彼の表情を見た伯爵夫人は思わず一歩後ずさる。

 いつも穏やかに彼女の言葉を受け止めてくれる夫はそこにはいなかった。彼は――静かに、しかし激怒しているようにも思えた。

 

「君が言っていたように、私達は夫婦らしい夫婦ではないし、エルフリーデは君にとっては血の繋がらない娘だ。だが、君は……すごく秩序を重んじる人だし、まさかそんなにあからさまなことをするとはないと信じていたんだが――……私の目の届かぬところで、エルフリーデに何をした?」

「……っ」

「今日の朝食の席で、ため息をついてみせたね。そういえばいつも、君がため息をつくとエルフリーデが言葉を呑みこむことがあったように思ったんだが。私がいる前ではしないようにしていたみたいだけれど、使用人の前では繰り返ししてたようじゃないか」


 びくっと伯爵夫人は身を震わせた。


「ギイ=クレモンヌからの手紙や花を握りつぶしていたのも、君だね? そしてそういったことが私に耳に入らないようにしていたのも、君だな」


 最後は質問ではなかった。

 ただの断定であった。

 

(ああ、もう全て、ご存知で……)


 使用人たちには、こう言ったのだ。

 旦那様はお忙しいから、エルフリーデに関することは全て私に伝えるように、と。そしてギイ=クレモンヌからのエルフリーデへの手紙や花は、彼女に届ける前に全て破棄したのだ。それは今回のマコノヒー伯爵家の夜会のあとだけではない。……ずっと昔、まだエルフリーデが子供だった頃からだ。


「もちろん、私も仕事にかまけて目が行き届かなかったこともある。だから君だけに責を負わせるつもりはないよ。だが残念だ、君のことは信頼していたのにな……」


 その言葉に含まれる何かに気づいて、グレンフェル伯爵夫人はのろのろと夫を見やる。


「信頼、していたのに……?」

「事実が明らかになって、今までと同じように過ごせる気がしない。私達の、今後のことを考えなければならないだろうね」

「――……!」


 グレンフェル伯爵婦人は目を見開いて、固まる。


「私がジョセフィーヌを愛したままでいい、と君は言ってくれたね。子供だってもう必要ないと。夫婦のように過ごせなくて良い、とまで。私はそんな君に感謝していたんだよ。だから君が過ごしやすいようにと極力口を出さないようにしていたつもりもあった……だが、その信頼を全て裏切られていたとは」

「だ、旦那さま……」

「マリスにちゃんとした縁談を探すと約束しよう。君にとってはそれが何よりも重要だろう?」


 冷めた瞳で、夫がこちらを見下ろしてきた。


「さてその上で、もう一度、問おう。まだ君は、マリスとギイ=クレモンヌとの婚約を押し通すつもりか?」

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