第30話 「貴女には譲れない」
その日は午後からギイと『ゴトフリーの悲劇』を観に行くことになっていた。エルフリーデがジェシカの手を借りて準備をすすめていると、聞きつけたらしいマリスが部屋に乱入してきた。
それまでエルフリーデの髪をといていたジェシカがすっと壁際まで下がる。
「メイドが忙しそうにしてたから捕まえて聞いてみたら……、ギイ様と観劇に行くんですって……!? なんでよ、周囲にみせつけるため!?」
エルフリーデは密かに息を吐く。
(……、大丈夫、落ち着くのよ、エルフリーデ)
「ええ、そうよ」
肯定してみせれば、マリスが一瞬ひるむ。
「ど、どうして……、お義姉様と行ったって面白くないでしょ、しかも何を観に行くの? ――この時間から出かけるんだったら……『ゴトフリーの悲劇』? 昼間に公演してるのってそれくらいしかないものね。せめて今流行りの『お転婆令嬢の契約結婚』なら、ちょっとは面白いかもしれないけど、いくら同伴者がつまらなくてもっ」
「流行りだったら、どうしてちょっとは面白いの?」
「え、それは……、だって、『お転婆令嬢の契約結婚』だったら夜会でもよく話題になっているし、流行に乗り遅れないほうがいいしっ……」
エルフリーデは少しだけ黙る。
「……そうかもね。でも、『ゴトフリーの悲劇』を観ようと言ってきたのは、彼なのよ」
そう言うと、みるみるうちにマリスの顔がどす黒く染まる。
「な、なによ、ギイ様はだっさいお義姉様に気を遣ってるだけでしょ、お義姉様が流行に疎いからっっ! そんなこともわからないの? そんなのでよく婚約者面をしていられるわね……!」
エルフリーデは、ぐっとマリスを見据えた。するとマリスは少しだけひるんだようだった。
「な、なによっ……」
「どうしてそんなに、彼の婚約者になりたいの?」
「はっ……?」
「マリスがそこまで彼にこだわる理由が、私には分からない」
みるみるうちにマリスの顔が憤怒の表情をまとう。
「ギイ様に婚約者となって欲しいなんて、当たり前でしょ、クレモンヌ家は社交界でも知名度が高いし、そもそも彼はとっても人気のある令息だし、それに、婿に来てくださるってことは、私はこの家から出ないってことだから、生活を変えなくて良いわけだし……、ずっとお母様と言っているでしょう?」
「そうだったわね」
エルフリーデは静かに呟く。
(そんな理由の……マリスに、ギイを渡したく、ない)
彼への想いを胸に、エルフリーデは話し始めた。
「私は、彼との思い出がたくさんあるの。それこそ、お母様が生きていらした頃から……、二人だけの思い出がね。だから、私……婚約者の立場は譲ることはできない。彼はとても大切な人だから」
今や呆然と立ち尽くしているマリスに向かって、エルフリーデは続ける。
「もしクレモンヌ家が社交界での知名度が高くなくても、彼が人気のある令息ではなくても、我が家に婿に来てくれなくても……、私が家から出ることになっても、それで生活ががらりと変わっても、私は彼と婚約を結びたい――……彼が、いいの。だから婚約者としての立場は貴女には譲れない」
「――っ」
マリスが、口元を大きく歪める。
「な、なにを、そんなことを言ってみて……、私に、ギイ様を諦めさせようとするなんて許せないわ……っ!」
「それから、マリス」
エルフリーデは、つと背筋を伸ばして義妹を見据えた。
「彼は私の婚約者よ。だからギイ様ではなく、クレモンヌ様と呼んでくださる?」
「―――っ! うるさいわねっ、なんなのよ、もうっ!!!」
再び真っ赤に頬を染めたマリスが、荒々しく部屋を出ていくのをエルフリーデは黙って見守った。
扉がしまってしばらくしてようやく彼女はふうと息を吐き出し、天井を見上げた。
(……これでいいんだわ、誰かにしてもらいたことを願って待つのではなくて……、私が、私が変わることが大事なんだ……)
「お嬢様……」
そこでジェシカがおずおずと声をかけてきて、エルフリーデは我に返る。振り向いた彼女はにっこりと笑う。
「お待たせしてごめんね。お願いできる?」
「――っ、もちろんでございます! 腕によりをかけます!」
ぱっと笑顔になったジェシカの手に、エルフリーデは身を委ねた。
◇◇◇
観劇ということもあって、シンプルな装いにした。
ジェシカがこれが良いと思う、と提案してくれたライトベージュの、露出の少ないドレスに、アクセサリーは父が誕生祝いにくれたものを合わせる。
迎えに参上したギイもシンプルな装いで、感覚が近いところが落ち着くな、と感じる。そしてギイは、エルフリーデのネックレスに目を留めると、ふっと口角を上げたのだ。それはどこか、嬉しそうだった。
(なんだろ……? このギイはこのアクセサリーがお父様からもらったものだって知らないはずだけど……?)
ふと疑問に思ったが、ギイが特にそのことは言及しなかったのでエルフリーデも気にしないことにした。
「さあ行こうか」
「はい」
ギイが差し出してくれた腕に、エルフリーデはそっと手をかけた。彼女が手をかけると、ギイの横顔が緩んだ気がした。
◇◇◇
ギイが用意してくれていたのは、二階のボックス席だった。ぶ厚いヴェルヴェットカーテンで仕切りがされていて、ここならば人目を気にせずにゆっくりと観劇することが出来るだろう。
(向こうの世界と同じで、このチケットの手配を手伝ってくださったのはクレモンヌ伯爵かしら)
子供の頃の印象では、クレモンヌ伯爵夫妻はすごく優しい人柄だった。
ちらっとそんなことを思いつつ、開演するとエルフリーデは全てを忘れて、舞台に集中する。
『ゴトフリーの悲劇』は予想していた通りに面白かった。
長編小説ではないということもあってか、細かなシーンまで演じてくれたのも良かった。小説のファンであるエルフリーデには嬉しいポイントだ。
だが正直に言えば、『お転婆令嬢の契約結婚』ほど舞台装置に凝っていたわけではなく、華々しさにはあと一歩及ばずというところだ。話の内容も決して明るいわけではなく、シリアスだから余計に。
役者たちのカーテンコールが終わるまでエルフリーデは舞台に集中していた。ようやく幕が降りて、彼女はひとりごちる。
「……、私は、『お転婆令嬢の契約結婚』より、こちらのがいいわね」
「は?」
そこで隣から、穏やかとは言い難い声がして、エルフリーデはそちらに視線を送る。 そこには仏頂面のギイがいて、じっと彼女を見つめていた。
「『お転婆令嬢の契約結婚』だと?」
「あっ……」
(え、ギイに聞こえてた……?)
「お前、観たのか?」
「えっと……」
「いつ行ったんだ? しかも、誰と?」
どうしてか険しい口調で問い詰められてしまい、エルフリーデの視線があっちこっちに動いてしまう。
(え、なんでこんなに……? でも、向こうの世界で、向こうのギイと一緒に行ったなんて、言えるわけないっ!)
「え、えっと……、行ったような、行ってないような……!?」
(こっちの世界では行ってないしっ……!!)
「何を言ってるんだ?」
ぐっとギイが迫ってきて、エルフリーデは叫んだ。
「お、お友達に話を聞いただけよ!」
焦るあまり、敬語が抜け落ちてしまった。
彼女がそう言うなり、それまで迫ってきていたギイの動きがぴたりと止まった。
「……、ど、どうした、の……?」
エルフリーデがおそるおそる尋ねると、そこでギイがふわっと笑った。
(――わっ……!)
まるで行き来がよくあった、幼少期を彷彿とさせるような自然な笑みに感じられてエルフリーデの胸がときめく。
「そうやって喋れよ、いいか、俺にはもう敬語を使うな。分かったな?」
「……え……?」
そこでエルフリーデは、つい先程自分が昔のように馴れ馴れしい口調で話してしまったことに思い至った。
「え、でも……、その……っ」
おろおろするエルフリーデに対して、ギイがわざとらしい険しい表情を作り、両腕を組む。
「い い な?」
一言一言、脅されるように強めの口調で言われた。
だが彼の瞳は、どこか愉快そうな、嬉しそうな光を灯している気がした。
「あの、その、なるべく努力します……っ」
「わ か っ た な?」
「わ、わかった……っ!」
「よぉし、忘れるなよ」
そう言って、ギイが満面の笑みを浮かべた。そうやって笑うと、まるで本当に子供の頃に戻ったかのようで。
だからエルフリーデも最後は彼に頷いてしまったのだった。
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