第28話 「小さな変化」

 次に気づいたら、自室のベッドで横たわっていた。

体中が強く硬い床にぶつけたように、鈍く痛む――が、エルフリーデの心は相反して明るかった。


(私……、夜会にいたはずよね……、でも、ベッドにいるということは、もしかしたら……っ!)


 一縷の望みを抱きながら、おそるおそるベッドに起き上がった。

 きょろきょろと眺めても、昨日までと何ら変わらないようには見える。


(そうだわっ……!)


 ふと思いつき、ベッドサイドテーブルの引き出しを開けてみる。


(私が、元に戻っていたら……ここに日記がないはず……っ!!)


 どくんどくんと激しい動悸の中、視線を動かす。


(――ないっ!)


 どれだけ目を凝らしても、引き出しの中に日記はもうどこにも見当たらない。


(ないってことは、戻ってこれた……のよね、ああ……、ありがとうございます、天使様……!)


 安堵とあまりの喜びで、じわりと瞳が潤み始めるが、時期尚早だと気を引き締める。


(もしかしたら、やっぱり違うってこともあるかもしれないから……っ)


 けれど、すぐにでも確かめたい。

 エルフリーデが寝間着を脱ぎ捨て、自分でなんとか普段着のドレスに着替えていると、そこへジェシカが入ってきて目を丸くする。


「お嬢様……っ?」

「あ、ジェシカ。おはよう」


 昨日までしていたように挨拶をすると、ジェシカの顔が綻んだ。


「おはようございます、お嬢様。私を呼んでくださったらよかったのに。今すぐお手伝いさせていただきますね」


 いつにないくらい――……いや、母が生きていた頃と同じくらいににこやかなジェシカに手伝ってもらい、支度を済ませる。


「ありがとう、ジェシカ」


 お礼を言えば、メイドはにっこりと微笑んでくれたのだった。


 すぐに部屋を出て、朝食の席に向かう。

 すると、廊下の角でばったりとマリスと出くわした。


「……、おはよう、マリス」


 声をかけると、いつもならば顎をつんとあげて嫌味の一つでも言ってくるマリスが、ぎょっとしたような表情になる。


「おはよう、ございます……"お義姉様”」


(お義姉様……?)


 驚いて義妹を見やると、マリスがマリスらしく顎を突き出す。


「何よ、貴女が言ったんでしょ、人前じゃないと私がお義姉様って呼ばないとかなんとか……だから気をつかって、人前じゃなくても言ってあげたのにそんな顔をすることないでしょ?」

「え……?」

 

 ぽかんとすると、マリスが一歩後ずさる。


「また何か言うつもり!?」

「何かって……?」


 ぐうっとマリスが息を呑み、エルフリーデの顔を伺うように見た。それから彼女は背後をさっと確認すると、尖った声で話し始める。


「マコノヒー伯爵家の夜会で倒れてから、振る舞いがおかしくなったこと忘れたって言わせないわよ。記憶がないせいにして、今までできなかったことをまとめてしちゃってるじゃない、お義姉様のせいで、みんななんか調子が狂って……、お義父様もギイ様だってそうよ!」


 自分で話す内容に興奮していくのが、いつものマリスだ。

 今も、徐々にマリスの声が大きくなっていく。


「私が、おかしい?」

「は? おかしかったでしょ……? わかったわ、昨日マコノヒー伯爵家での夜会だったからちょっと元の自分を思い出したって? そんな都合のいいことなんて言わせないわよ。でもあんな風に急に態度を変えて、みんなの注意を引くなんてひっどいやり方よ、私は絶対に騙されないからね!!」


 言うだけ言うと、マリスは肩を怒らせて踵を返し、小走りで去っていった。


(私の様子がおかしかった……ってこと……は……それをマリスがこうやって指摘してくるってことは……っ!)


 じわじわと喜びが湧いてくる。


(やっぱり、もしかしたら……、私、戻ってこれたんじゃない?)


 足取りも軽く、朝食の席に向かうと父と義母が先に席についていた。


「おはようございます、お父様、お義母様」


 嬉しさのあまり、期せずして弾むような声が出た。義母はいつものように無表情だったが、しかし父がエルフリーデに視線を向けてくれる。


「おはよう、エル。元気な声じゃないか……よく眠れたのかな?」


 思いやりの感じられる、優しい声音だった。


(まさかこの世界でも……、お父様が……話しかけてくださるなんて……!)


 エルフリーデの胸が感動で打ち震える。

 向こうの世界の父は、随分と過保護気味で、朝の挨拶ももっと長くて甘いものだった。こちらの世界の父はそれよりはさっぱりしたものだが、それでもこうやって親しみを見せてくれるとは……。


『みんななんか調子が狂って……お義父様も、ギイ様だってそうよ!』


 マリスの言葉は嘘ではなかったようだ。

 エルフリーデの口元が自然と緩み、笑顔を作る。


「はい、よく眠れました」

「それは何よりだね」


 そうやって穏やかな表情をしていると、かつて、それこそ母が生きていた頃の父が重なる。


「お父様も、よく眠られましたか?」


 思わず、あの頃のように自然と言葉が続く。

 エルフリーデの質問に、父の表情が更に優しいものへと変化する。


「ああ、私もゆっくり休めたよ。……聞いてくれて、ありがとう」

「!」


 お互いの視線が交差して、エルフリーデは思わず微笑んだ。すると父も微笑み返してくれ、そうすると胸の内がぽっと暖かくなる。


(嬉しい、嬉しいな……朝からなんて良い日なんだろう)


 エルフリーデがそんなことを考えて席につけば、しばらくして仏頂面のマリスもやってきて隣の席についた。マリスが挨拶だけすると不機嫌そうに黙り込んでしまったこともあり、珍しく今日は父が口火を切る。


「そういえば、近々グリーン家で内輪での夜会があるそうだ」


 グリーン家とは、カティアの実家のことだろう。エルフリーデは食事の手を休めて、そっと耳をそばだてた。


「それは、うかがっておりませんわ。いつですの?」


 義母が尋ねると、父が頷いた。


「私も昨夜、マコノヒー家での夜会でグリーン伯爵に会って、直々に招待されたところでね。少し急だが、グリーン家との関係もあるから、家族で参加したい」

「そういうことでしたか。承知いたしました」

「うん。それでエル、お前はギイ=クレモンヌにエスコートしてもらえるかどうか確認しておいてくれ」


 ぱっとエルフリーデが顔をあげると、父は微笑んでいた。

 

(ギイに……! となると、やっぱりお父様はまだギイとの婚約を続けたいとお考えなのだわ)


 ぱあっと笑顔になったエルフリーデは、頷く。


「はい。今日彼に手紙を送りますわ」

「うん、そうしてくれ」


 父が満足そうな表情になると同時に、エルフリーデの隣から尖った声があがる。


「お義父様、まだお義姉様とギイ様の婚約は本決まりではないでしょう?」

「またその話か。どうして何度も蒸し返すんだー……確かに本決まりではないが、だが何も問題はないよな、そうだろう?」

「それは――……」


 それ以上ろくな言葉が続かず、ぎりっとマリスが奥歯を噛みしめるのと、義母がわざとらしくため息をつくのが同時だった。

 義母のため息が耳に入ると同時に身体がすくみそうになったが、なんとかエルフリーデはこらえる。

 そこで父が静かな声で、エルフリーデに問う。


「エルフリーデも、そう思うだろう?」


 マリスと義母の鋭い視線が、さっとエルフリーデに集中する。以前のエルフリーデならば、どう答えていいかきっとわからずに、ただその場を穏便に乗り切るがために曖昧な表現をしてしまっただろう。

 エルフリーデがそうやって言えば、父だってこの婚約をどうしたらいいか分からなくなってしまうはずだ。


 けれど。


(私、何も悪いことはしていない……、彼女たちに、遠慮する必要なんて、ない)


 自然と震えそうになる手をぎゅっと握りしめると、すっと背筋を伸ばした。エルフリーデのそんな反応を、マリスと義母がぽかんとした表情で見守っている。


「はい」


 しっかりと答えると、途端に義母が落胆したような表情になり、マリスに至っては令嬢らしくなく顔を顰める。父だけがどこか満足そうに、エルフリーデに頷き返してくれた。

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